61 杜稾鍾隷 漆書壁経

61 杜稾鍾隷 漆書壁経

     とこう しょうれい  しっしょ へきけい

 杜操(とそう=後漢の人)は稾書(こうしょ=草書)をよくし、鍾繇(しょうよう=魏151~230)は隷書をよくした。漆で書かれた論語などの経書が、孔子の旧宅の壁中から発見された。

 杜操は後漢の章帝の時代の人。生没年不詳。稾書を得意としたといわれているが、真筆は伝わっていない。
 鍾繇(しょうよう)は楷書のパイオニアとして有名で、宣示表などの楷書が伝わっているが、隷書はない。当時は隷書全盛の時代であるから、楷書よりは隷書が普通に書かれていた。
 
 漆書は漆で竹簡に書かれた古典的な書巻をいう。実際は墨書だった。漆のように黒々と見えるからそういうのである。秦の始皇帝の時代に焚書があって、孔子の家の壁中に塗りこめて難を逃れた書物が、漢の武帝の時代に発見された。これが論語古論のオリジナル・テキストだという。古論派が自派の正統性を主張するために作り上げた粉飾偽書のたぐいである。

【字形説明】
 『干禄』では「高」の下に「禾」を書く。ただし「高」はハシゴ高(髙)になっている。しかし楷書の歴史では初唐までに「禾」は「木」になっていた。天溪の書を見ると、高のアタマを変化させ、下の口をムにしている。ハシゴ高(髙)の下に「木」がよい。
 この字は「鐘」もあり、「重」と「童」とが併用されていたらしい。ここは人名なので、混用はできないが。
 表記の字形は『干禄』が正とした形である。しかし初唐形では左は「上と天」、右は「又と米」と書く。隷書からの伝統である。その左が「土と示」になり、右は「隶」とされて今に至っている。ところで、『干禄』の序では右を「又と米」にしている。「隶」にこだわっていないことが知られる。なお「款」も古くは「上と天」であった。
 表記の天溪の字形が『干禄』の正とした形である。古くはツクリが「七と木」もあった。また「膝」という字は肉ヅキに「来」とも書き、智永の千字文ではそれを反映して「漆」をサンズイに来と書いている。
 上は聿(いつ)だから、表記天溪書のようにタテ棒が下に突き出るのが正しいが『干禄』では出ていない。今日の活字も出さない。出すことに不都合はないように思える。
 下の土に点をつける形が初唐形である。『干禄』以来、点は不要になった。さて、「立と十」とあるところ、書では「十」ではなくヨコ二本とする。「癖、璧、辞、譬」など、活字ではみな「十」であるのに、書では「ヨコ二本」に書き、『干禄』もそうしている。『設文』の篆書字形によれば、二本棒が妥当であるように見えるが、何と『康煕字典』で「十」にしたのである。不思議なことである。
 初唐形「経」が『干禄』で「經」となった。 「軽、径」なども同じである。ツクリは「<」が三つもある煩雑な形で、これは美的でないので今日では「又と土」という初唐形に戻っている。けっこうなことである。

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