目次:青渓会 会員
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清歌散新声 緑酒開芳顔
清歌 新声を散じ
緑酒 芳顔に開く(陶淵明)
作者 高倉朋溪
草書 書軸 紙本濃墨 28×60(本体)
出典 陶淵明
制作 2002
番号 会00074
第21回青溪会展出品作。たっぷりと墨を含ませた重みのある草書。しかも線質は引き締まってにじみもない。こうした線の運びが望ましいのだが、実はこれこそが至難の技なのである。もちろん年季もものを言う。落ち着いていて、おだやかで、品がある。
作者 : 4.会員
掲載 : 2011/02/26 上に戻る
喫茶来
喫茶に来よ
作者 山下陽子
篆書 書刻 桐 峰彫 左から20×25/16×27/20×26
制作 2004
番号 会00073
お茶の世界では、普通は「喫茶去」と言う。「去」も「来」も同じ意味だが、「去(ゆけ)」よりは「来(おいで)」のほうが現代的である。そこで旧来の熟語にはとらわれず「来」とした。「お茶を飲みにいらっしゃい」という意味がはっきりする。
作者は初めての書刻。板はみな厚さ5センチくらい。自分で発見してきた。玄関に三つ並べるつもり。なかなかのアイデアだ。
作者 : 4.会員
掲載 : 2011/02/18 上に戻る
人生楽在相知心
人生の楽は相知の心に在り(王安石)
作者 齋藤松溪
楷書 書刻 檜板 黄檗染 筋彫 23.5×93.5
出典 王安石「明妃曲二首」の其二
制作 2000
番号 会00072
これは筋彫りという。輪郭線を彫るのである。「線彫り」としている本も見受けられるが、日本の彫り文化では線とは云わず「筋」という。板は木曽檜で、地肌が黄色いのは黄檗(きはだ)染めを施したからである。筋の中は黒ではなく焦げ茶色を入れて調子を和らげている。黒では強すぎるのである。
昨今のように異民族、異文化と接触することが格段に多くなった時代には「相知る心」の価値も相対的に高くなった。原詩は王昭君の故事を踏まえたものだが、現代的に読み直すとまた面白い。
作者は天溪楷書を継承する第一人者。
作者 : 4.会員
掲載 : 2011/02/13 上に戻る
江湖秋水多
江湖 秋水多し(杜甫)
作者 森 金星
行書 書刻 杉板 彫込 79×16
出典 杜甫
制作 2004
番号 会00071
飛騨の高山で見つけた水車の板に彫った。板を組んだあとの長方形の窓が三つある。このような景色ある板をよく見つけたものだ。森さんはお茶の先生なので、はじめはこれに足をつけて「結界」として使うつもりで居た。しかし折角だから、板に字を彫りなさい、とそそのかして、壁に下げられるように裏面に金具をつけた。もちろん足をつければ結界にもなるので一挙両得である。
ところで「秋水多し」とは、たくさんの江や湖が点在しているのであろう。高い丘から見下ろしているのだろうか。なかなか贅沢な秋である。
作者 : 4.会員
掲載 : 2011/02/04 上に戻る
飛泉
飛泉(ひせん)
作者 高 保美
篆書 書刻 朴板 彫込 薬研彫 彩箔
20×40
制作 1997
番号 会00070
作者はもともと「かな」をやっていた人で、ご主人の転勤にともなって東京を離れることになり、記念に書刻作をひとつ作ることとした。
この箔はこのような柄の彩箔である。使い勝手がよく、彫り込みの場合に板の表面部分を活かすことができるので、オススメである。
作者 : 4.会員
掲載 : 2011/01/29 上に戻る
毘沙門天
毘沙門天(びしゃもんてん)
作者 神田睦則
楷書 書刻 扁額 ケヤキ板 浮出彫 緑青 金箔押 170×28
出典 とくになし
制作 2002
番号 会00069
これも神田さんの作だが、何で毘沙門天なのか。商売繁盛の神様だからか。字は日下部鳴鶴の楷書を習った。
書もなかなか上手な人で、天溪最晩年の弟子の一人である。彫りは私が教えたのだが、(天溪は彫りを誰にも教えなかった。)私などよりずっと上手い。若くて腕力もあるし、この程度の浚いなどはほんの一日仕事である。実は自宅マンションではトンカンできないとあって、近所の公園で彫っているのである。この根性は見上げたものではないか。着色、箔押しは私の監視のもと青溪書苑で行った。ニカワの濃さを指先の感触で教えたかったからである。関防印は「壽昌」。長命で栄えること。
作者 : 4.会員
掲載 : 2011/01/13 上に戻る
臨石鼓文
吾以悽于原(石鼓 丙)
作者 神田睦則
書刻 篆書 ケヤキ板 総浚 彫込
出典 石鼓文の丙
制作 2001(第21回青溪会展)
番号 会00068
三番目の字はコザトヘンである。パソコンで変換できないので上の釈文ではリッシンベンになっているがご容赦ください。
さて、どれも読めない篆書である。許慎が著わした『説文解字』の字形より古いというが、こちらをプロトタイプだとすると『説文』に合わなくなるので、『説文』信者の多い書道の世界では、この資料の位置づけに苦労している。『説文』と違って石鼓は原資料だという点で格段の重みがある。許慎の字形は許慎の推敲が加わっており、もとになった資料が何であったかが疑問である。春秋戦国の石刻、あるいは帛書などの現物との比較対照が必要である。
作者神田さんは「何という字だかわからない」字形に魅力を感じて、石鼓の臨書に挑んだのだが、たしかに現代人にとって、最後の字などはどうしてこれが「原」という字なのか不思議である。この怪しげな不思議さ、というのも字の顔のひとつであろう。これは実際に機能していた字なのである。すべての字形が解明されて明確に説明がなされてしまっては面白くない。
作者 : 4.会員
掲載 : 2011/01/08 上に戻る
無可無不可
可も無く不可も無し(論語)
作者 蒲田令望
草書 立軸 半切1/4 紙本濃墨
出典 論語
制作 2001
番号 会00067
可もなく不可もなし、良くも悪くもなし、真ん中へんがよろしいのか。おかしな言葉だが、便利な言葉である。ここで蒲田氏がこの句を取り上げたのは、そうした意味内容はともかく、「字ヅラ」が蒲田好みなのである。「無」が二字、「可」が二字、という書き手にとっては厭な字面なので、普通はこういう語句を書こうとは思わない。いやむしろ敬遠するのが書人というものである。
行書体と草書体とを組み合わせ、同じ字を何とか紙面に変化をつけて納める、という面白さが、この語句を選んだ眼目である。同様の趣旨で蒲田氏は「一杯一杯復た一杯」(番号 会00059)「之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずと為せ」などの作品がある。
作者 : 4.会員
掲載 : 2010/12/19 上に戻る
博古知今
古(いにしえ)に博くして今を知る
(孔子家語)
作者 蒲田令望
草書 陶板 呉須 10×28
焼成 工藤孝生 八王子焼窯元
出典 孔子家語
制作 2002年
番号 会00066
昔のことをよく識った上で今を読もうとする。いにしえに博(ひろ)くなければ今の行く末を客観的に類推できない。
かつて何と言っていたか自分で忘れているどこぞの総理に聞かせたい言葉だ。
2003年の「青溪会書刻展」に出品した。前年の陶板研究会での成果である。
作者 : 4.会員
掲載 : 2010/12/09 上に戻る
桃李春風一杯酒
桃李春風 一杯の酒(黄庭堅)
作者 町田由溪
隷書 書刻 楹額 木曽檜 彫込
文字色:古代紫 26×79
出典 黄庭堅
制作 2000年(第21回青溪会展)
番号 会00065
もう10年ほど前のことになるが、木曽檜の良材が手に入ったので、当時のお弟子さん7,8人と「檜板による書刻作」に取り組んだ。四月からはじめてほぼ全員が完成にこぎつけたのは九月である。これらの作品はそれより2年後の第21回青溪会展に出品された。
この隷書作は細い線で横長に書く、という課題であった。しかしいざ彫ってみると、檜板のヨコ彫りは至難のワザである。というのは細い横線が並ぶと、板は目がタテに走っているので、亀裂が入って欠けてしまう。
横線が多いので、左右にアクセントをつけて桃色のタテ線を入れた。桃という詩文に合わせたのである。この写真はデキタテのホヤホヤである。今頃は檜板が飴色に風格を増しているだろうと思う。
作者 : 4.会員
掲載 : 2010/11/28 上に戻る