目次:青渓会 会員
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頭上漫々 脚下漫々
頭上漫々 脚下漫々
鮮やかな緑箔を全面に押している。箔は金銀箔ばかりではないので画材屋さんで見せてもらうことを私は勧めている。これは小池さんが池の端の喜屋で買ったそうだが、私が別の店で聞いたところ、これと同じ色のものはなかった。店によって品が微妙に違っていたりするので面白い。
漫々はサンズイがつくので水のことばかりかと思っていたが、広くとりとめのないことにも用いられる。
ツクリは「冒(ぼう)」と「又」の合字。「冒」は「面衣」とある。顔にかかるベールであろう。下部の「又」は手の形だからベールを手で引っ張る、すると美しい目元が顕れる、という字形で、流し目のことらしい。
作者 小池千代子
隷書 書刻 扁額 朴板 15.5×79
制作 2004
番号 会00044
作者 : 4.会員
掲載 : 2009/05/24 上に戻る
相聴春声
相(とも)に春声を聴く
板は桜で彎曲している。自然の曲線なのでそれを生かし、文字枠を水平に配した。こうすると上下のゆるやかな曲線がいっそう引き締まって見える。「枠浮出し」と私は名づけている。
作者・小池さんは私が町田の「読売カルチャー」で教えていたときに入門し、もう10年以上になろうか。こんなことをしてみたい、と常々思っていて、偶然この教室を見つけた、と言っていた。そろそろ個展ができるくらいの数になっているので、数点まとめてご紹介しよう。
作者 小池千代子
隷書 書刻 桜板 枠浮出彫 文字銀砂子 78×26
出典 とくになし
制作 2003
番号 会00043
作者 : 4.会員
掲載 : 2009/05/10 上に戻る
延年益壽
えんねん えきじゅ
漢代の瓦当の字から採った。隷書の初期の素朴な形をしている。
初心者はこのように古典に範をとって彫りと着彩で楽しむ方法が、早く書刻に親しむ近道である。字形はもともとがよいのだから、出来上がってみると存外「サマになる」ものである。色は枠線に交互に二色を配するだけで、むづかしくない。あまり趣向をこらすと逆につまらなくなる。
板はちょっと奮発してヒノキを使った。このころ会員十人ほどがヒノキに挑戦していた。作者はベテランにまじって力闘して、配色を皆にほめられた。十人が出すコッパはかなりのもので、家に帰ってお風呂に入れます、と持って帰る人もあった。
作者 中田良子
隷書 書刻 楹額 ヒノキ板 浮出彫
金箔押 24×80
制作 2003
番号 会00042
作者 : 4.会員
掲載 : 2009/05/02 上に戻る
待望
同じく鈴木さんの作品。キリスト教の「信望愛」の望は「希望」だが、これは「よき福音(おとづれ)を待ち望む」こと。信者に限らず、すべての人にこの気持ちがある。小さな待望の積み重ねがその人の軌跡だろう。
板は珍しい「梨」である。果物のなる木は目的が違うので、建材つまり板材にはなりにくく店頭ではめったにお目にかからない。まっすぐ高く伸ばしては実を採るときに困るからであろう。これは庭の梨の木を伐った人が譲ってくれたもので、ご覧の通り風変わりな肌合いをしている。梨の実はザクザクしているが、板は逆にキメ細かく稠密というにふさわしい。昔は玄関の上がり框(かまち)に梨を使ったそうで、年月が経つと、出入りの人の足で磨き込まれてピカピカになると聞いた。
作者 鈴木世紀子
篆書 書刻 小額 梨板 彫込 34×17
制作 2003
番号 会00041
作者 : 4.会員
掲載 : 2009/05/02 上に戻る
賛美神
神を賛美す
作者はクリスチャンで、「信」「望」「愛」の三部作を試み、ついでこの「賛美神」を彫った。このように制作の動機は人によってさまざまで、書はいかようにも対応できる。私は「何を書きたいのか」を大切にしたい。
先生のお手本ばかりに終始する人に、決定的に欠けているのがこの根本的な部分である。いつのまにか、自分が何を書きたいのか、考える自分がなくなってしまう。止むに止まれぬ内的衝動を書に託する迫力のない作品をぶらさげたとて何になろう。
美神を賛ず、と読んだ人もありそうだ。確かに中国語は動詞がアタマにくるので賛・美神でも通ずる。これだとクリスチャンでなくともよさそうだ。中国語文法のあいまいさが、かえって融通性をよくしている。ちなみに「賛」は「讚」に同じ。
上部の白い点々はフラッシュの光があたって下地の黒漆がテカったものである。素人写真ですみません。
篆書 書刻 朴板 浮出彫 金箔
作者 鈴木世紀子
制作 2002
番号 会00040
作者 : 4.会員
掲載 : 2009/04/10 上に戻る
雲薄翠微寺
雲は薄し翠微寺(杜甫)
「翠微寺(すいびじ)」は実際にある寺の名。翠(みどり)が微(わず)かなる寺というので、詩人の心が敏感に反応し、「雲は薄し」とあわせたのである。このように寺名や地名をたくみに取り込むうまさは杜甫の独壇場である。文字に対する感性のひらめきを私は感ずる。寺には山号というのがつきものだから、さしずめここなどは「雲薄山」(うんぱくざん)・翠微寺」としたいものだ。
板はヒノキで幅もあり良材である。この5文字の背景になっている空の色を文字にあてはめた。
隷書 書刻 ヒノキ板 彫込 峰彫
23×48
出典 杜甫
作者 高倉朋溪
番号 会00039
作者 : 4.会員
掲載 : 2009/04/02 上に戻る
松樹千年之翠
松樹 千年之翠(みどり)
陶皿に墨呉須(すみごす)で字入れをしている。(陶芸では「絵付け」というがこの語は我々にはなじまない)。
紙とは勝手が違って、土(粘土)に書くのだから、それなりの工夫が要る。筆に絵具を含ませるのが勝負どころで、乳鉢に溶いた絵具を均一に攪拌して濃度を定める。絵具はすぐに沈殿して上澄みがたまってくるから、そのつどコマメに攪拌する必要がある。書く身になってみれば中断を余儀なくされて、いやなものだが、手抜きはできない。書くことに熱中するあまり、上澄み液ばかり掬い取ることになりがちで、そうなると字はだんだんぼやけてしまう。困ったことにそれがわかるのは焼きあがった後なのである。
というようなことで、書道展に陶器に書いた作品が見られないわけがお分かりになろう。
かな 陶皿 墨呉須 徑27
作者 野呂純子
制作 2002
番号 会00038
作者 : 4.会員
掲載 : 2009/03/28 上に戻る
酔時百歳
酔時百歳(すいじひゃくさい)
いうなれば百年間も酔っ払いっぱなし、ということよね。飲むにも程度というものがあるんじゃないの?
いやいや、これこそ呑兵衛垂涎の境地だ。至福の心ここにありだ。
アル中ってことじゃない。
わからん御仁だな。あなたに酔って百年ってくどかれてみい。ほら、まんざらでもない顔になった。
山下君のたしかこれが第1作だったと思う。酔っぱらった色はどうする? と聞いたら「じっくり考えます」と言って、一週間後に「歌舞伎の幕を見てこれだ、と決めました」と語っていた。緑と橙と黒の伝統の色に学んだのである。こういう感性の若者もいるのである。
隷書 書刻 小額 朴板 峰彫 15×45
作者 山下 真
制作 2003(青溪会書刻展)
番号 会00037
作者 : 4.会員
掲載 : 2009/03/21 上に戻る
言忠信 行篤敬
言は忠信 行は篤敬(論語)
言は左右して行は無し、という総理大臣を戴いている国民だから、「論語」のこんな文句を見ると恥ずかしくって顔をあげられません。
作者は30代の若者。モミの木はたいへん堅いのだが、そこは腕力でねじ伏せるだけのパワーがある。浚うのだけでも大変だ。芯のある腰の据わった隷書を書く。この語句は自分で選んだ。
隷書 書刻 楹額 モミ板 浮出彫 総浚
金箔押 24×100
出典 論語「衛霊公」
作者 山下 真
制作 2003
番号 会00036
作者 : 4.会員
掲載 : 2009/03/15 上に戻る
擧頭望山月
頭(こうべ)を擧(あ)げて山月を望む(李白)
李白の有名な詩で「このあとに「頭を低れて故郷を思う」と対句になっている。ここでは頭を擧げたほうを取り上げて、前向きの作品にしている。つまり、この語句だけにすると、背筋を伸ばして目標をきっと見据えているイメージである。このように原詩のコンセプトから離れて鑑賞することができる、というのも書の楽しみのひとつである。
これは平成15年の「青溪会書刻展」の出品作。地には岩絵具の赤を撒いてあざやかな仕上げになっている。
隷書 書刻額 桂板 浮出彫 銀箔押
25×85
出典 李白
作者 森 金星
制作 2003
番号 会00035
作者 : 4.会員
掲載 : 2009/03/14 上に戻る