目次:青渓会 会員
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やよひになりて
やよひになりて、咲く桜あれば、散りかひ曇り、おほかたのさかりなるころ、のどやかにおはする。(中略)
姫君はいとあざやかに、気高ういまめかしき様したまひて、ただ人に見たてまつらむは、似げなうみえ給ふ(源氏物語 竹河)
扇面作である。扇面の見方、書き方については私のエッセイ「扇面考」をお読みください。
金銀の砂子をちりばめた手漉きの料紙に「やよひになりて」と書きはじめる心地はいかばかりか、と羨ましく思うかたもおありだろう。心のゆとりというものがなくてはコチコチになって書けたものではない。この「ゆとり」を身につけるために、長いこと筆に親しんできたのである。
「姫君」とあるのは玉鬘の上の娘(大君)である。下の娘(中君)は今上天皇に輿入れし、大君はこのたび冷泉院に入内することになった。玉鬘邸が「のどやかにおはする」というのもむべなるかな、である。今をさかりの権門の姫君の様子は「いとあざやかに気高う今めかしきさま」とある。「ただ人(臣下)」にはとても見えない高貴さが漂っている。
作者 杉浦和子
かな 扇面
出典 源氏物語「竹河」
制作 2002
番号 会0054
作者 : 4.会員
掲載 : 2009/12/19 上に戻る
春眠不覚暁 処々聞啼鳥
春眠暁を覚えず 処々に啼鳥を聞く
夜来 風雨の声 花落ちること知る多少(孟浩然)
かなの書風で漢詩を書くことは少ないが、そこは「和漢朗詠」というよい見本があるので、かなの線を活かした作品をつくることができる。
漢字の線は筆をタメながら、「押し書き」するが、かなの筆法は逆に「引き書き」である。したがって筆のカエリ(反対方向に向かうこと)が重たくならない。どことなく清々しく、さわやかなのはそのためである。日本的な感性が追い求めた和風の漢字なのである。
孟浩然の有名な詩で、誰もが書くから訳は不要であろう。春のあけぼののウトウトした気分を余すところなく言い得て妙である。
作者 野呂純子(漢詩なので里溪の雅号を用いている)
かな 書額 半切1/2
出典 孟浩然「春暁(しゅんぎょう)」
制作 1998
番号 会00053
作者 : 4.会員
掲載 : 2009/12/02 上に戻る
古今和歌集 かな序
やまとうたはひとのこころをたねとして よろづのことの葉とぞなれりける
世の中にある人 ことわざしげきものなれば こころにおもふことを見るものきくものにつけて いひいだせるなり
花になくうぐひす みづにすむかはづのこゑをきけば いきとしいけるもの いづれかうたをよまざりける
貫之のこの「かな序」は和歌の精神を高らかに宣揚した名文である。冒頭の有名なこのくだりは「かなの書」を手がける者にとっても心の底に沈めておくべき文言であろう。
作者はわが青溪書苑の幹事。中央区書道連盟の鑑査員かつ審査員。このブログの「百人一首」を担当している。ぜひお立ち寄りください。こちら。
作者 野呂純子
かな 書額 砂子紙濃墨 56×44/49×34
出典 古今和歌集 かな序(紀貫之)
制作 2009 第61回中央区書道展
番号 会00052
作者 : 4.会員
掲載 : 2009/11/01 上に戻る
冬の薔薇
冬の薔薇 まくらべにひそと にほふさへ
たくらみをれば 人はさみしき (小池光)
現代歌人の歌を書くことが少なくなった。著作権をうんぬんする時代だから「注意したほうがとい」と忠告されることもある。しかし、歌人がいったん本に出して発表した歌を書くことが禁止される社会であってはならない。むしろ自分の歌がこんなところで人を感動させているのかと嬉しく思うであろう。共感するからこそ筆をとって書こうという気持ちになる。まあ、大量に作って儲けているのなら別だが。小池氏の反応を知りたいものだ。
さて、歌の意味だが、何を「たくらんで」いるのかは書かれていない。薔薇をひそかに贈ってくれた人のたくらみなのか、それを逆手にとって寝ている人がしかける「たくらみ」なのか。たしかに、薔薇の香りをよそにそんな思案そのものが寂しい。現代人の心の断片ではある。
作者 野呂純子
かな 書刻 イチョウ板 彫込 110×35
出典 小池光
制作 2003(青溪書刻展出品作)
番号 会00051
作者 : 4.会員
掲載 : 2009/08/22 上に戻る
徳不孤必有鄰
徳は孤ならず
必ずや鄰(となり)有らん(論語)
論語巻2に出る名言。
「必ず鄰有り」と断定して読むのが伝統だが、上のように読んでみた。徳はしばしば孤独、孤立である。必ず理解者が出るとは限らない。「必ずや・・あらん」と希望的観測の言葉にした。
板はイチョウである。鮮やかなカラシ色は作者の選択。
板と字の大きさが釣り合って収まっている。このような作品の参考例として記憶していただきたい。
作者 町田由溪
篆書 書刻 楹額 浮出彫 31×122
出典 論語巻2 里仁第4
制作 2003(青溪書刻展出品作)
番号 会00050
作者 : 4.会員
掲載 : 2009/07/19 上に戻る
蹉跎暮容色
蹉跎(さだ)たり 暮の容色(杜甫)
「蹉跎(さだ)」とは時を過ごしてしまうこと、機を逸してしまうことを意味する。夕暮れの美しさはあれよあれよという間に変化して、待っていてくれない。まことに「蹉跎(さだ)」たるものがある。
人それぞれに美しい暮景に出会った経験がおありだろう。書作はそのようなイメージをよみがえらせてくれる働きを持っている。
うつろいやすいものだから、なおさら美しい、ともこの句は言っている。幸いにも、我々の記憶はそれを保持することができる。
作者 町田由溪
隷書 書刻 ヒノキ板 彫込 18×70
出典 杜甫
制作 2003
番号 会00049
作者 : 4.会員
掲載 : 2009/07/04 上に戻る
石欄斜点筆
石欄(せきらん)斜めに筆を点ず(杜甫)
石造りの建物は欄干も石である。日本の社寺は木造なので木の欄干に宝珠がついているイメージになる。紫禁城を訪れて我々がびっくりするのは、階段、欄干のおびただしい石の彫刻であろう。
石欄を遠くから見ると斜めに点々と筆跡をつけたように見える、と書の国の詩人らしい観察をしている。古人は筆を手に詩想を練ったのである。今日の詩人はワープロなのでこうは行かない。
そういわれて、確かに習字では点は斜めに打っていることに気付く。まっすぐタテに点を打つことはほとんどない。斜め45度が定位置だといえる。欄干が斜めに造られるはずはないから、これは光線の加減でそう見えたのであろう。
板は木曽のヒノキである。「キソヒ」と愛称される。年度課題として皆でキソヒに挑んだときのもので、「天然木」の焼印のある上物だった。
この硬質な隷書の線は作者・松溪独自のもので、日下部鳴鶴の隷書の延長線上にある。大成させたら書道史に残るレベルだと思う。
作者 齋藤松溪
隷書 書刻 ヒノキ板 彫込 峰彫 21×50
出典 杜甫
制作 2003
番号 会00048
作者 : 4.会員
掲載 : 2009/06/27 上に戻る
心外無別法
心外に別法無し(楞厳経)
仏教ではすべてが心中にあるとする。外界だと思っている宇宙も実はおのが心の中にしか存在しえない。世界を支配する理法もわれわれの外にあるわけではない。そこで「心外に別法があると思うなよ。お前さんの心をよく見なさい」となる。諸悪の根源は自分なのだ。
これじゃボヤきたくともボヤけないね、とボヤこうではないか。
丸ノミで横に浚って広がりを出している。この茶色は「岱赭(たいしゃ)」という顔料で赤系のものを用いた。
作者 齋藤松溪
楷書 書刻 ホウ板 浮出彫 29×72
出典 楞厳経(りょうごんきょう)
制作 2003
番号 会00047
作者 : 4.会員
掲載 : 2009/06/20 上に戻る
天工清新
天の工(たくみ)は清新なり
自然の造化は清新なること驚くばかり。天に対する畏敬の念を忘れないようにしたい。
写真はアオって撮ったように斜めになっているが、これはこういう形の板で、神代ケヤキである。土中に埋もれて発見されることがある。古いものだというので「神代」の名をつける。なかば化石化しているので土中の鉄分などが定着するらしく、黒くなり、重くなり、硬くなる。彫りにくいといえばいえるが、どちらかといえば硬い木のほうが楽である。
作者 木村大太
篆書 書刻 神代ケヤキ 彫込
出典 とくになし
制作 2002
番号 会00046
作者 : 4.会員
掲載 : 2009/06/06 上に戻る
桃李不言 下自成蹊
桃李 言(ものいは)ずとも
下自から蹊を成す(史記)
ケヤキの板にあざやかな赤。良い香、おいしい実。黙っていても人が集まり、木の下に路ができる。
行列ができているので末尾の人に「何の安売りですか?」と尋ねたら「さあ」と首をひねっている。群集心理でとりあえず並んでみたらしい。蹊を成すとはいえ「桃李」かどうか確かめてからにしろよ。
作者 小池千代子
篆書 書刻 楹聯 ケヤキ 彫込
出典 史記
制作 2004
番号 会00045
作者 : 4.会員
掲載 : 2009/05/30 上に戻る