目次:岡村天渓
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世理
世(よ)理(おさ)まる(白居易)
「理」は「おさまる」と読む。「王」ヘンは「玉」のこと。「里」は条里の区画。玉に筋などの模様があることから、条理のあること、筋を通しておさめることを意味する。条理も情理もない政治ばかりが横行する時代には警句として面白い。たった二字でも雄弁である。こんな語句を探し出すことにかけては天溪は名手であった。
第二回個展(竹川画廊)で発表した作品。
行書 書刻 杉板 彫込 30×50
出典 白居易
制作 1967
番号 天00096
作者 : 1.岡村天渓
掲載 : 2011/11/24 上に戻る
間忙各有趣

間忙各趣有り(白居易)
間は閑。暇があるのとないのと、どちらもそれぞれに趣きがある。
「なるほど。忙中閑あり、といいますからね」
「いや、ちょっと待って下さい。忙中に閑を求めるんじゃなくて、忙は忙のままでいいじゃあないか、というんです。」
「そうか、逆を求めてもいかん、と。」
「いや、いかん、と言っているのでもない。忙中には確かに閑もあるでしょう。でも忙は忙なりに楽しめるよ、というんですね。あるがままを受け入れる、これ最近の考えです。もう頑張るのをやめよう、老人や子供に頑張れ、頑張れ、とエールを送るのは却って良くない、そのままでいいんだよ、と言いましょう、となってきている。」
「なるほど。二十一世紀的発想の転換てやつですね。」
「いや、唐の時代の人が言っているんです。」
篆書 書額 紙本濃墨 半切1/2
出典 白居易
制作 1964
番号 天00095
作者 : 1.岡村天渓
掲載 : 2011/11/17 上に戻る
山深人俗淳
山深く人俗淳し(白居易)
山深く人里を離れれば都会と違って人俗も穏やかである。これがあるべき姿なのだと言いたいのであろう。どうも大都会はギスギスしている。
この小品は早々に売れてしまい、手もとにないのでこのモノクロ写真だけでは何の板かもわからない。字形は石門頌の古隷を踏まえている。箔は銀箔だったように思う。地色は岩絵具の緑青を撒いていた。
湻は淳の隷体。篆書では湻の下に羊がつく。穏やかな作品で私の中では好印象を残している。
隷書 書刻 桂板か? 浮出彫 銀箔押
出典 白居易
制作 1968
番号 天00094
作者 : 1.岡村天渓
掲載 : 2011/11/10 上に戻る
壽
壽
これは祝儀袋に書いたもので篆書である。(水引は外してある。)書家はこの字を何かにつけて書くことが多いので、このギャラリーにも陶板(番号:天00008、00077)全紙作(00005)、などに紹介している。
これは太い線でズカリとしたためている。祝儀袋は良質の奉書紙で、墨の吸収がよく、すぐにカスレが出る。この極端な両者を筆致としてまとめることは容易ではない。また存在感のある線を引くということは存外むづかしいことで、蔵鋒という入筆を死ぬほど稽古してようやくサマになるのである。心得のない人が真似事をすると「ミミズがのたくった」ような無残な結果となり、目も当てられぬ始末になる。嘘だと思う方はどうぞ遠慮なくお試しください。
篆書 祝儀袋 濃墨 12×16
制作 1979
番号 天00093
作者 : 1.岡村天渓
掲載 : 2011/11/03 上に戻る
寓意于物往々成趣

寓意物に于(お)いて往々にして趣を成す
意識をもたない物にたまたま意味を見ることがある。寓意が期せずして表れている、と言おうか。けっこうそれが面白い風情になっていることもある。
「歳をとって、このごろは石が面白くてね」と、玉城康四郎先生が仙台で言っていた。君は若いから石など見ないだろうが、どうして石は見飽きないものがあるよ、と。
当時の先生は東大を定年退官したあとだから、今の私より若かったのである。まあ、まだ石が面白くなる歳になりたくないので、そんなものかと思っておこう。
天溪最晩年の六号色紙である。
隷書 色紙6号 濃墨
出典 白居易か?
制作 1990
番号 天00092
作者 : 1.岡村天渓
掲載 : 2011/10/28 上に戻る
祥瑞来白日
祥瑞 白日に来る(白居易)
祥瑞(しょうずい)はめでたいきざし。白昼堂々とやって来る、というめでたい語句。文字色を五色にして天溪には珍しい作。
最初の個展の会場で撮った私の写真。光むらがあってへたくそである。考えてみればもう50年も前のことなのでカラーがあっただけでもラッキーだと思わねばならない。
この爨寶子碑(さんぽうしひ)ばりの作は実は私が気に入って、売らないはずになっていたのだが、我が家にあるはずが見つからない。はじめに板全面を浚っておいて、あとから字を彫り込むという手法である。誰でもすぐに思いつきそうな手法。ところが展覧会や看板などでこのやり方の作品を見たことがない。浚った上面を研ぎ出して地色と対比させるところがミソである。この「研ぎ出し」が一番むづかしい。やってみればすぐに分る。
隷書 書刻 楹額 桂板 彫込
出典 白居易
制作 1964
番号 天00091
作者 : 1.岡村天渓
掲載 : 2011/08/27 上に戻る
池邊樹下重殷勤

池邊の樹下 重ねて殷勤 (白居易)
池のほとりの木の下。 「重ねて殷勤(いんぎん)」とは樹の葉が幾重にも茂っていることを擬人化して言ったのである。涼しげな木陰で、重ね重ねご丁寧なおもてなしぶりですなあ、とおどけて応えている。茂りすぎてちょっと鬱陶しい感じまでにじみでていて、なかなかの用語である。
「慇懃」に「思慕する情が深いこと」という注が国訳漢文大成(3巻p.267)にあるが、これはちょっと苦しい解釈だ。
おどけた隷書でゆらめく横線が流れている。あまり涼しげな感じではなさそう。
隷書 扁額 紙本濃墨 15×90
出典 白居易
制作 1970
番号 天00090
作者 : 1.岡村天渓
掲載 : 2011/07/29 上に戻る
養風烟

風烟を養う(王安石)
おかしな言葉である。そもそも「風烟」などで養えるものであろうか。「養」は「羊」と「食」を組み合わせた字でわかりやすい。草を食ませて羊を太らせることである。しかし草ではなく風烟などで太ることはあるまい。役にも立たぬものを食ってのうのうと生き延びていることを「風烟を養う」という。
風烟は風煙に同じ。「けむり」というよりは「かすみ」だろう。それは仙人の食べるもので、人は「霞を食っては生きられない」と古来言われている。
書仙というべき人がある。超然として世事には無頓着、ひとは「かすみを食べているのかしら」とうわさする。天溪もそう見られていた。風烟を養っているのさ、とケムにまきつつ、自嘲したのであろう。
王安石の詩ではこの前に「みだりに花竹を栽え」とあり、政界から放逸され田舎町の一官吏となった王安石が、政治への未練を残して無為な日々を送っている自分を歌っている。自嘲の底にはいらだちがある。ところを得ていながら「風烟を養っている」政敵たちはどうなのかと。おっと、緊急時にそんなやからが日本の政界におられぬことを祈りますな。
天溪は宰相ではないから、そんな鬱屈はなかったであろう。
隷書 書額 紙本濃墨 90×36/64×26
出典 王安石
制作 1975
番号 天00089
作者 : 1.岡村天渓
掲載 : 2011/07/24 上に戻る
盤石

盤石(はんせき) 王維
王維の「盤石の上に偃臥(えんが)す」の語をとった。「ばんじゃく」とも読めるが、それは仏教読みだから、漢詩らしく「はんせき」と読むべきだろう。
盤石は巨大な岩のこと。言葉の持つ圧迫感に対して、なだらかな文字構成を試みている。 「礼器碑(らいきひ)の流麗な線と、神君碑(しんくんひ)を参考にした。」と後年言っていた。
画数の多い字と少ない字とを並べて組み合わせる、というのも難しい課題で、敢えてそれに挑むという天溪好みの撰文である。人が避けるところに踏み込む、そこに苦心があり、そのうえで偃臥したかったのであろう。ついでながら「偃臥」とは「寝っころがる」ことだが、『字統』では巫女が神がかりのエクスタシーの状態になって臥すことが字の原義だという。
隷書 扁額 染紙濃墨 半切1/2
出典 王維
制作 1972
番号 天00088
作者 : 1.岡村天渓
掲載 : 2011/07/08 上に戻る
鷦鷯一枝

鷦(しょう)鷯(りょう)は一枝に(杜甫)
「鷦(しょう)」はみそさざい。「焦」と「鳥」とが入れ替わっても同じ。
「鷯(りょう)」もみそさざい。杜甫の詩では「一枝に在り」となっているが、在を省いている。荘子の「逍遥遊」によると「みそさざいは深林に巣くうも一枝に過ぎず」とあり、ほどほどの居場所に落ち着く、余分な場所を占領しない、という意味の句である。そこで「一」をわざと小さく書いている。
ちかごろの店舗はやたらと支店を増やし肥大するあまり自滅することも多い。経済を優先させるとどうして「大きいことはよいこと」になるのであろうか。私のような小市民にはトンと合点がゆかぬ世界である。
写真では左側がハレーションを起こしているが、この作品はお嫁に行ったので私の手もとになく、再撮影できない。お持ちのかたはご連絡ください。
篆書 書刻 杉板 彫込 30×70(くらい)
出典 杜甫「秦州雑詩二十首」の20(の最後の句)
制作 1973
東京 某氏蔵
番号 天00087
作者 : 1.岡村天渓
掲載 : 2011/07/01 上に戻る
