2009年3月 岡村大の作品
到岸一滴

到岸一滴(とうがんいってき)
木目が波紋のように見える。池の真ん中に垂らした一滴が、まるく広がって、やがて岸辺に到るだろう。小さな一粒がいずれは大きな山になる。「点滴岩をも穿つ」とか「一石を投ずる」などの言葉もある。
隷書 小額 書刻 エンジュ板 彫込 29×15
制作 2001
東京 F氏蔵
番号 大00039
作者 : 3.岡村大
掲載 : 2009/03/29 上に戻る
大略 駕群才

大略 群才を駕す(李白)
李白の時代も今も、世の中は才能を持つ人であふれている。軍隊も群才をかかえているに違いない。しかしせっかくの人材も、ところを得なければ戦争には勝てない。それには単なる戦略ではだめで、もっと大きな構想が必要だ。それを「大略」と呼ぶ。「駕す」とは自在に働かせ、牛耳ることだ。
政治に限らず、軍事に限らず、チョコザイな戦略では役に立たない。何事においても、やるからには「大略」が必要であろう。
篆書 書刻 扁額 エンジュ板 鉈彫 黄土 100×25
出典 李白
制作 1998
東京 H氏蔵
番号 大00038
作者 : 3.岡村大
掲載 : 2009/03/28 上に戻る
平々凡々
へいへいぼんぼん
昨日作ったばかり。
この語は前にも彫ったことがあり、陶板にも作ったので何作もあるが、時々思い出したように書いている、いわば気に入っている言葉なのである。「平凡」とだけ書くのは面白くない。文字には「繰り返し効果」のようなものがあるのではなかろうか。「虚実」と「虚々実々」では後者のほうが断然生き生きとしてくる。
板は黒檀である。平凡どころか高級材である。平凡を装う下心が見え見えで、「平々凡々」などとぬけぬけといいながら、何を考えているのか、油断ならんぞ、と思わせる。
最近、駅の広告などに用いられているハヤリの額に収めてみた。
篆書 書刻 小額 黒檀板 平彫 39×53/19×24
制作 2009
番号 大00037
参考 前掲作
作者 : 3.岡村大
掲載 : 2009/03/21 上に戻る
高秋爽気 相鮮新
高秋の爽気 相(あい)鮮新(杜甫)
「秋」の字はノギヘンが右にくることもある。今では「新鮮」というが、杜甫は「鮮新」と言っており、シンセンな感じがする。
オリンピックでばれてしまったが、今の北京の空は最悪らしい。以前は「北京秋天」という言葉があったほど、秋の紫禁城の上空は美しかった。安井曽太郎や梅原龍三郎が競って北京飯店から「秋天」を描いている。杜甫が今の北京に来たら嘆くであろう。
私は「秋の爽気」というと、子供の頃の運動会の朝を思い出す。家を出るときはちょっと肌寒い。弁当の初物のミカンの酸っぱさと重なって鮮新である。おや、昔ばなしになってしまった。「秋の夕べに、人は子供の頃を思い出すものだ」とグレアム・グリーンも言っている。
楷書 書刻 楹額 朴板 浮出彫
金箔押 30×92
出典 杜甫
制作 2001
番号 大00036
作者 : 3.岡村大
掲載 : 2009/03/15 上に戻る
昔人己乗白雲去・・・

昔人(せきじん)己に白雲に乗りて去り 此の地 空しく余す 黄鶴楼
黄鶴 一たび去って 復た返(かえ)らず 白雲千載 空しく悠々
晴川歴々たり 漢陽の樹 芳草萋々(せいせい)たり 鸚鵡洲
日暮 郷関(きょうかん) 何(いず)れの処か是れなる
煙波 江上 人をして愁えしむ(崔顥)
崔顥(さいこう)は盛唐の詩人(704?~754)。「こう」の字はパソコンによっては出ないこともあるかもしれない。偏は景、旁が頁。
酒屋の壁に描いた鶴が踊るというので評判になって、酒屋は大繁盛。描いた仙人が再び現れて今度は笛を吹いて鶴を呼び出し、その背に乗って去ってしまったというお話がある。仙人は橘の皮で描いたので黄色い鶴だった。酒屋が記念して建てたのが黄鶴楼。
私の好きな詩だが、書いてみると白雲、黄鶴、去、空などの字がダブり、あまりありがたくない。悠々、歴々、萋々もダブるが、これは書では一字で済ませてよいというルールがある。韻を踏んでいるので声に出して読めばわかる、ということなのであろう。
楷書 書軸 紙本濃墨 34×55
出典 崔顥(唐詩選)
制作 2008
番号 大00035
作者 : 3.岡村大
掲載 : 2009/03/14 上に戻る
但有泉声洗我心
但だ泉声のみ有りて我が心を洗う(白居易)
「但」という字に「たったそれだけのことで」というニュアンスが含まれ、この一字が効いている。泉の湧き出る音が「声」となって、たったそれだけでも心を癒してくれる。誰もが味わったことのあるひとときだ。
板はケヤキで拭き漆仕上げである。やや茶色がかった透明の漆は木目の中に入り込んで、黒く木目を際立たせる。「木目もありて我が心を癒す」と続けたい心境である。
アメリカのペンキ文化は木目もなんのその、みんなべったりと塗りつぶすという不粋な仕事で、それが上陸して今の日本を塗りつぶしているように思われる。日本のように四季が美しい国とは違って、鮮やかな木目を生み出さないから、木目をいつくしむ文化がないのであろう。
隷書 書刻 小額 ケヤキ板 彫込 拭漆仕上 15×47/10×41
出典 白居易
制作 2002
東京 N氏蔵
番号 大00034
作者 : 3.岡村大
掲載 : 2009/03/12 上に戻る
白日依山尽 黄河入海流・・・
白日 山に依りて尽き
黄河海に入りて流る
千里の目を窮めんと欲して
更に上る一層楼(王之喚)
かなたの山に白い太陽が近づいている。黄河の流れがようやく海にたどりついた。もう一層上階に上るのは、千里を見通せる視界を得たいからだ。
見通しのよい地位にのぼりながら、自分の足元しか見ない人たちが「政局、政局」と騒いでいる。もううんざりだ。
楷書 書刻 楹聯(えいれん) 楠板 彫込
総浚 天溪研ぎ 24×160×2本
出典 王之喚
制作 2000年
番号 大00033
参考 書道コラム(29)
作者 : 3.岡村大
掲載 : 2009/03/06 上に戻る
ローレライ

ハイネの有名な詩「ローレライ」の現代中国語訳である。簡体字は旧字に直した。ハイネは「海涅」、ローレライは「羅蕾莱」という漢字になる。訳者は楊武能。こんなものを発見して書いてみるのも面白い。全文を出すのは略して、はじめの一連だけにしよう。近藤朔風の名訳は
「なじかは知らねど心わびて 昔の伝説(つたえ)はそぞろ身にしむ」
中国語訳
「不知道什麼原故 我総是這麼悲傷 一個古老的故事 它叫我没法遺忘」
かなり大袈裟になる。明治42年の近藤訳は簡潔で要を得ている。
書道といえば漢詩、李白、杜甫となるが、待てよ、写経のおおもとはサンスクリット語、漢文の経典はその翻訳ではないか。だとすれば、もとがドイツ語であっても「中国語訳」でさえあれば、書にはなるのである。聖書の漢訳を用いて明治、大正の人は書軸を残した。そこで私はシェリーの詩やウイリアム・ブレイクの詩などを手がけてみたが、おおむね「面白い、初めて見た」と好評であった。着眼は、である。いずれこの欄でも取り上げる。
行書 風炉先屏風 青紙濃墨 82×60×2面/65×35×2
出典 ハイネ「ローレライ LORELEY」
東京 H氏蔵
番号 大00032
作者 : 3.岡村大
掲載 : 2009/03/05 上に戻る
老来事業 転荒唐
老来の事業 転(うた)た荒唐(蘇軾)
おいぼれたらしく(老来)、やることなすこと(事業)、ますます(転)、ちぐはぐ(荒唐)
まずい。そのとおりだ、と思うあなた。あなたばかりじゃありませんよ。で、関防印には「意に介さず」としておきました。え? よく見えない? 視力なんて気にしない、気にしない。
隷書 書額 紙本茶墨 33×93/17×68
出典 蘇軾
東京 S氏蔵
番号 大00031
作者 : 3.岡村大
掲載 : 2009/03/01 上に戻る
