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    <title>エッセイ論文</title>
    <link>http://www.seikeikai.net/essay/</link>
    <description>本格書道サイトの書道広場！稀代の書道家・岡村天啓先生の教えを引き継いだ岡村大が監修。本物の書道を学びたい方のための書道教室「青渓書苑」もご紹介！まずは習字からという方も大歓迎！</description>
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    <copyright>青渓会</copyright>             <!-- Copyright notice -->
    <category>Weblog</category>
    <item>
 <title><![CDATA[６　論語成立の一側面　52）先行資料　古論は古くない-1]]></title>
 <link>http://www.seikeikai.net/essay/date_01-29-2012.html</link>
<description><![CDATA[　王充と同時代に生きた後漢の班固(はんこ　AD32～92)は『漢書』の芸文志に、<br />
<b>「論語には古論二十一、斉論二十二、魯論二十」</b><br />
あると記しており、前段階のテキストを伝えたセクトにやはり三派あったと言っています。<br />
　班固は前漢末の劉歆（りゅうきん　前53～後23）の「七略」を典拠としてこれを書いたのですが、その「七略」は父の劉向（りゅうこう　前77～6）から学んだようです。したがってこの記載は劉向の時代からの情報を伝えたもので<b>「彼らはいずれも中央の要人であって情報には恵まれていた人たちだった」</b>と宮崎市定先生が述べています。<br />
<br />
　ここで言われている「古論二十一」を学者は「孔子壁中古文得（孔子家の壁中から得られた古文）」という伝承に該当すると考えています。<br />
　この言い伝えによると、篆書で竹簡に書き込まれた資料がすでに秦の時代には存在していた、というものです。例の始皇帝の「焚書坑儒」の弾圧を避けて、あらかじめ孔子家の壁中にこれを塗りこめて秘匿し、漢の武帝の時代になって孔子の旧宅から発見されたと言います。これが「古論」のオリジナル・テキストだと正当化するのです。<br />
<br />
　もちろんこのようなオリジナル・テキストは当時も存在するわけがありません。孔子の私宅にあったというなら、私的に筆録していたことになりますが、すでに見てきたように、後漢にあってすら筆録は皇帝二代にまたがる国家的な事業でした。今でこそ孔子の旧宅は大廟ですが、それは後世に建てたもので、孔子死後の孔子家は没落し、少なくとも財政的には逼迫したはずです。そのような資力の要る事業に孔子の子や孫が手を出せるわけもありません。焚書坑儒にかこつけた作り話です。<br />
]]></description>
 <category>General</category>
<comments>http://www.seikeikai.net/essay/date_01-29-2012.html</comments>
 <pubDate>Sun, 29 Jan 2012 18:29:12 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[６　論語成立の一側面　51）『論語』の筆録-2]]></title>
 <link>http://www.seikeikai.net/essay/date_01-13-2012.html</link>
<description><![CDATA[　この王充の記載によって儒教がセクトの時代を脱して遂に最高権力と結びついたこと、それが前漢末、隷書の時代であったことがわかります。筆録の諸条件が整ったまさにその時代だったのです。それは孔子の死(479BC)後、400年ほど経ったあとのことでした。すでに見たように現在知られている最古の『論語』資料（隷書）はこの宣帝による欽定論語の成立に時期が密着しています。河北省や、朝鮮半島の楽浪郡などへと、意外に早く波及したのです。<br />
　王充は片田舎（=江南の会稽）の小官僚に過ぎず、うだつが上がらなかったようですが、当時の不条理な社会を批判的に見る目と、広範な学識を備えていました。<br />
<br />
　『論語』はかくして五経の末尾に置かれる正典としての地位を得ました。国家の定める正典は国子監の門前に石経として刻み込まれるたてまえです。後漢の「熹平石経　きへいせっけい（175～183AD）」には易経、尚書、魯詩、儀礼、周礼、春秋公羊伝の六つに加えて論語が第七番目に刻されたのです。字は霊帝が祭邕（さいよう　後漢の文人、書家）に書かせたもので、隷書完成期の標準的な形で書かれています。唐代まではありましたが、五代になって散逸したといわれていました。ところが1921年、洛陽の太学の遺跡から原石の断片百点余が発見され『論語』もわずかな断片（拓本）が今日に伝わっています。【下図】<br />
<a href="http://www.seikeikai.net/media/2/20120113-0bb.jpg">null</a><a href="http://www.seikeikai.net/media/2/20120113-0b.jpg">null</a><br />
<br />
<br />
<br />
<br />
熹平石経　論語残塊（175AD)<br />
『武内義雄全集』　第一巻論語篇<br />
（角川）昭和53]]></description>
 <category>General</category>
<comments>http://www.seikeikai.net/essay/date_01-13-2012.html</comments>
 <pubDate>Fri, 13 Jan 2012 16:47:54 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[６　論語成立の一側面　50）『論語』の筆録]]></title>
 <link>http://www.seikeikai.net/essay/date_12-22-2011.html</link>
<description><![CDATA[　このように筆録の前提条件を見て来ると『論語』の筆録については、王充の『論衡』の記載は正しく評価さるべきものと思われます。<br />
　王充（27～107AD頃）は後漢の人ですが、これによれば『論語』の筆録は孔子教団自身が行ったものではなく、まさしく王命によって着手されたいきさつが分ります。恐らくは資力の問題でしょう。<br />
<br />
　『論衡』には<b>「昭帝(86～74BC)に至りて二十一篇を読む」</b>とあり、この筆録事業は斉本とか魯本とか河間本などという先行テキストの諸本のうち、古論21篇の篆書を解読し、それをもとに次の宣帝（73～49BC）の時代になって完成したと言っています。いわば二代にわたる国家事業でした。ちょっとした王宮建設事業ほどの時間を要することがわかります。この最初の筆録は篆書で行われました。しかしこのころ篆書はすでに過去の遺物になって混乱を極めていました。王が時の太常博士・時尚に下げ渡したところ、意外や<br />
<b>「書暁り難し」</b>との発言がありました。太常博士というのは宗廟の礼儀を司る部署で、武帝の設けた五経博士もこの下に組織されているほどの権威です。その長官でさえすでに篆書は読みにくいものだったのです。そこで、<br />
<b>「更めて隷もて写し、以て傳誦し、之を名づけて傳と曰えり」（</b>王充「論衡」第28巻正説第81）とあります。<br />
　新たに当世風の隷書体で書き直さねばならなかった、ということです。また本来「傳」とは口授で伝わるものを指すので、筆録されたものを「傳」という音声的表現で云うのは適切ではないが、今後はこれも「傳」と称することにした、と説明しています。なかなか細かいことに気のついた良い解説です。耳の時代から目の時代へと転換したことをよく言い得ているくだりだと言えましょう。<br />
<br />
<br />
]]></description>
 <category>General</category>
<comments>http://www.seikeikai.net/essay/date_12-22-2011.html</comments>
 <pubDate>Thu, 22 Dec 2011 16:33:16 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[６　論語成立の一側面　49）疑惑の眼を向けたい　続]]></title>
 <link>http://www.seikeikai.net/essay/date_12-18-2011.html</link>
<description><![CDATA[　　『論語』は本来的には孔子の弟子とのほのぼのとしたやりとりを伝承したもので、「景公が問うた」とするには孔子が弟子の誰かを同席させていなければなりません。このような場に常に弟子が居たのでしょうか。そうでなければ「景公にこう聞かれたので私はこう答えてやったよ」と孔子自らが得々と語らねばならず、それでは自慢話となり、師と弟子との親密な交わりに水を差します。<br />
<br />
『論語』ではこのような場合、「哀公が」弟子の「宰我に」社を問い、それに宰我が「これこれ」と答えて、その報告を受けた孔子が評する、というような具体的に脈絡のある形式をとっています。(八佾3-21) これなら孔子教室の対話らしさがあります。恐らくそのような光景こそが日常的だったのでしょう。同様のパターンは『論語』のあちこちに見られます。取ってつけただけではお話になりません。<br />
　要するに潤色者のつねとして「語るに落ちて」いるのです。弟子とのやりとりでなく、単に高官が教えを請うたとする箇所はすべて怪しいとさえ私は思っています。<br />
　<br />
　下手な潤色のもとになったものは小グループの筆稿で、著作活動が行われるようになった戦国時代あたりから各地で作られていたものでしょう。もちろんそれぞれが字形に癖のある篆書ですから、異国の人が読み解くことは容易な技ではありません。それも手前勝手な潤色をする人には好都合だったに相違ありません。<br />
]]></description>
 <category>General</category>
<comments>http://www.seikeikai.net/essay/date_12-18-2011.html</comments>
 <pubDate>Sun, 18 Dec 2011 18:05:32 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[６　論語成立の一側面　48）疑惑の眼を向けたい]]></title>
 <link>http://www.seikeikai.net/essay/date_12-16-2011.html</link>
<description><![CDATA[　私の疑り深い鼻は例えば次のような箇所にも怪しさを嗅ぎ取り、皮肉な読み方をします。<br />
<b>「葉公、政を問う。子曰く『近き者説（よろこ）び、遠き者来たる』と。」</b>(子路第3-16)のような部分です。<br />
<br />
　たまたま今年の3月11日に福島原発の事故があり、福島の人々は他県への避難を余儀なくされました。原発に「近き者」は悲しんで、福島の観光地は風評におののいています。「遠き者」が来ないからです。まことに政治とは端的にこのような事態に対処するためのものです。孔子のこの平易な言葉は今も不滅の真理だと言えましょう。<br />
<br />
　この普遍の言葉に「葉公問政」の四文字は全く不要で、内容に何も付け加えるところがありません。単に取って付けただけに見えます。恐らく「楚国の葉県の長官ともあろうお方が、孔子に教えを請うた」という地位のある人を引き合いに出す常套手段でしょう。たったの四字で長官を弟子扱いしてしまっています。しかもこの人物は孔子に好意を持っていませんでした。この潤色は逆効果で贔屓の引き倒しになっています。「子曰く」だけにしておけばよかったのです。同じように、<br />
<b>「斉の景公、政を孔子に問う。孔子対えて曰く、『君君たり、臣臣たり、父父たり、子子たり』と。」</b>(顔淵第12-11)とありますが、これも「斉景公問政於孔子、孔子対曰」の12字に対する内容は斉の景公でなければならぬ理由が全くありません。というより孔子の従来の主張そのものです。孔子が魯の昭公亡命のあとを追って、斉国に行っていた年月は明らかでなく、果たして斉の国王に会見できたのかも疑問視されています。しかも「問政於孔子、孔子対曰」と「孔子」を二度も繰り返してくどい言い回しになっています。「景公問政。子曰」では足りないと見たのでしょう。斉の国王が孔子に教えを請うたと思わせたかった意図は分りますが、安易なお手盛りです。<br />
<br />
　]]></description>
 <category>General</category>
<comments>http://www.seikeikai.net/essay/date_12-16-2011.html</comments>
 <pubDate>Fri, 16 Dec 2011 18:25:16 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[６　論語成立の一側面　47）権威にアダプト　]]></title>
 <link>http://www.seikeikai.net/essay/date_12-08-2011.html</link>
<description><![CDATA[　同時に孔子の発言そのものにも教団は手心を加えました。いたずらに為政者を刺激するような部分は取り除いて、権威にアダプトするようにシフトアップする必要がありました。しかしこれはシフトダウンである、権威への妥協や迎合は教団の堕落につながる、とする原理主義者たちもいたはずです。彼らは旧守派として反対したでしょう。現今の『論語』には郷党篇の最後のように意味不明の断簡が混っています。後世の注釈の混入だとも言われていますが、私はこのあと述べる「注釈の成立過程」を見た上で、注釈の混入ではなく本文自体の断簡ではないかと思います。旧守派との抗争の結果、改変できずにカットだけされ、意味不明のまま残した貴重な足跡ではないのか、と。<br />
<br />
　しかしながら孔子の思想は政治論であり、本来的には為政者の心得に属するものです。道家の老子や荘子などが徹底的に権威を認めない在野の立場に立つのに対して、孔子はあくまでも現実の社会での生き様を重視し、為政者との結合を是としていました。したがって孔子教団の一部が権威にアダプトすべく変容を加えたとしても、この路線に沿ったもので驚くにはあたりません。<br />
　孔子の言う徳治主義は親子の自然発生的な序列感情に基盤を据え、それを君臣関係にまで発展させるもので「礼」がそれを補強します。天下が安泰になったとき為政者が欲するのは常にこの外形の整った「平和的秩序の維持」です。<br />
<br />
　漢という大国が出現して孔子の教えを身にまとうようになるのはきわめて自然な成り行きとも言えるでしょう。秦の始皇帝にすらその兆しが見られるのですから、漢の武帝の時代には孔子教団もすっかり権威にアダプトできる体制を整えていたと考えられます。<br />
　「伝」に過ぎなかった孔子の言行が『論語』として公になり、権威付けの粉飾を施して、その結果出来上がった資料が現在私たちが読む「筆録論語」の原形です。ですから今の語句には相当の注意を払って、疑惑の眼を向ける必要があります。偽造、捏造、パクリを何千年にわたって許容してきた国民的特質を持つお国柄ですから、用心に用心を重ねてもまだ、とてもとても安心できません。<br />
]]></description>
 <category>General</category>
<comments>http://www.seikeikai.net/essay/date_12-08-2011.html</comments>
 <pubDate>Thu, 8 Dec 2011 12:43:03 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[６　論語成立の一側面　46）坑儒の創作　]]></title>
 <link>http://www.seikeikai.net/essay/date_12-01-2011.html</link>
<description><![CDATA[　神話はタワイないうちが花ですが、とりわけ孔子教団に「受難」のない弱みは致命的です。それゆえ悪役・始皇帝による「坑儒」を考え出しました。あの極悪非道の始皇帝ならやりかねない、と万人が溜飲を下げるであろうこと必定です。これによってまんまと「儒者の受難」を印象づけることに成功したのです。<br />
　私はすでに始皇帝がその刻石の詔勅において、儒家的思想を取り入れていることに言及しておきました。孝道や仁義を説く皇帝が儒者を坑（あなうめ）しなければならない理由はありません。一部のハネ返りにお灸をすえることはあったでしょう。しかし儒家を根こそぎ絶やすどころか、むしろ評価していたのではないでしょうか。明らかに焚書も坑儒も「受難劇」を演出しようとした孔子教団の誇大宣伝です。<br />
　「始皇本紀」には夜逃げした仙術の方士たちをかくまったとして「諸生460人を坑埋めして殺した」としか書いておらず、後漢の人・王充（後述します。）は<b>「伝書は増言して、儒士を坑殺し、詩書を絶たんとし、又尽くこれを坑にすと云へり。此れ其の実に非ずして又之を増せるものなり。」</b>（『論衡』語増第25）と、その誇大ぶりを喝破しています。具眼の士というものはあるものです。<br />
<br />
　漢の国家方針を受けて司馬遷（145～90BCごろ）は孔子教団の権威づけを『史記』において全面的に正当化しました。ご存知のように『史記』では帝王の歴史事蹟は「本紀」12篇に、諸侯の興亡史は「世家」30篇に、その他著名人の伝記は「列伝」70篇に、その他を合わせて130篇より成っています。歴史書としてはおよそ2500年間にわたる事象を包括しており、孔子の事蹟は「列伝」に収まるはずですが、敢えて「孔子世家」を立てて、さもない個人を「世家」すなわち「諸侯」に列するという待遇を与えたのです。孔子が諸侯ではないことが明らかなのに、司馬遷としてはこのような強引な「お達し」に不服だったのでしょう。さきに述べたように「野合」と言い放ってウサ晴らしをしています。「孔子世家」は孔子教団のみならず、漢帝国にとってさえ孔子の格上げが必要だったことを示すものです。それなくして公的な「筆録」に踏み切れなかった、という「筆録」の神性がこの時代にはあったのです。自由に出版活動のできる今の物書きの置かれている状況とは全く異なります。これをうっかり古代国家にあてはめると、認識そのものを誤ります。<br />
<br />
　もちろん官庁の発行する証書や、任命書（冊命）や出納記録や、手形、通行証などなど、記録せねばならないものは多数あります。しかしそれらはすべて実用性のある記録で、保存期間が過ぎれば廃棄されてよいものです。国家が記録する聖典はそうではありません。孔子の言行録は家臣たちに「読ませる国策」であった、ということが異常といえば異常でした。<br />
<br />
]]></description>
 <category>General</category>
<comments>http://www.seikeikai.net/essay/date_12-01-2011.html</comments>
 <pubDate>Thu, 1 Dec 2011 13:57:12 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[６　論語成立の一側面　45）『論語』の権威づけ]]></title>
 <link>http://www.seikeikai.net/essay/date_11-24-2011.html</link>
<description><![CDATA[　　最後にもう一つ整うべき条件があります。現在私たちが読んでいる『論語』をさかのぼると、王命による公的な筆録がそのもととなっています。公的に筆録されるには、それなりの権威を持たねばなりません。筆録されたものは当時にあっては権威のあかしでもありました。無条件に聖典だったのは「五経」です。すなわち易経、詩経、書経、春秋、礼記の五つです。これらは別格で、すでに「耳」の時代から権威という以上に神性を帯びており、当初から書き記すべき聖典の地位に置かれていました。<br />
<br />
　しかし孔子という一個人の言行が、口授され、それが権威をもち、五経のように「筆録されるにふさわしいもの」となるのは前例がありません。孔子がいかに有名人であったとしても、孔子在世中に雇ってくれる王は現れなかったのです。<b>「これを沽（う）らんかな。我は賈（か）を待つ者也。」</b>（売るともよ。私は買い手を待っているのだ。）と言っています。（子罕9-13）　孔子は素性の余り立派でない出身であり、孔子も<b>「吾少（わか）くして賎し。故に鄙事に多能なり」</b>(子罕9-6)と素直に認めています。生ま身の孔子が苦労したことを知る人がある限り聖人らしくもないでしょう。いわんや孔子は<b>「怪力乱神を語らず」</b>(述而7-20)、奇蹟を起こした人でもなければ、病人に触れるだけで治癒させる力もなく、天の啓示を受けて超能力を発揮した人でもありません。両親は正式な婚姻ではなかったらしく司馬遷(145～90ＢＣごろ）はこれを「両親の野合」によって生れた庶子、と書き記しましたが、言うに事欠いて「野合」とはよくも言ったり、という気さえします。上からのお達しに、執筆しながらよほど腹の据えかねるものがあったのかもしれません。<br />
　孔子には実兄もいたようですが何ら業績も見られず、結婚した妻の名前すら伝わらず、長男・鯉（り）には先立たれ、これらを見る限りおよそ平凡で神秘性のない地味な人生を歩みました。英雄に共通する非業の死や、聖人につきものの殉教の難もありません。<br />
<br />
　そこまで分っていながら、数多くの見え透いた「孔子神話」を捏造した孔子教団は、明らかに孔子先生の権威づけを画策したセクトであったことがわかります。黒龍の精に感じて孔子を産んだとする生誕神話（論語緯撰考）や、聖人の出現を祝福する霊獣・麒麟の死骸に出逢った孔子が、自分の死期を悟ったとする宿命神話（春秋公羊伝）は、洋の東西を問わず庶民の好むところで、このような神話工作は、たわいないだけに微笑ましいものだとも言えます。<br />
<br />
　神話の中にはタチの悪いのもあります。現代にだってないとは言えません。野田首相は国連で「原発の安全性を最高水準に高める」（2011.9/22)と演説しました。人類の智恵はまだ放射能を100％抑えることが出来ないのです。国家の説く原発の「安全神話」に比べれば孔子の神話などはるかにマシです。<br />
<br />
<br />
]]></description>
 <category>General</category>
<comments>http://www.seikeikai.net/essay/date_11-24-2011.html</comments>
 <pubDate>Thu, 24 Nov 2011 15:15:57 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[６　論語成立の一側面　44）筆に弾性が加わった]]></title>
 <link>http://www.seikeikai.net/essay/date_11-17-2011.html</link>
<description><![CDATA[　篆書と違って隷書は書きやすさの面でまたたく間に広く浸透しました。この背景には、筆の改良も見落とすわけには行きません。左端で踏ん張るにしろ、右端でシャクリあげるにしろ、筆に弾力性が必要です。篆書は線の太さが同じで、そのような弾力性をもともと必要としない書体です。したがって篆書を書く筆は今日の筆とは違って硬い毛（毫毛）で、その作りも単純、いわばブラシのような筆で事足りたものと思われます。今の進化した弾力のある筆（唐筆と言います）で篆書を書くとき、一番やっかいなのは均一な太さを維持するために、線の中心に重点を据えたまま引くことで、そのために「蔵鋒（ぞうほう）」という特殊な入筆を学ばなくてはなりません。これは穂先を内に包み込むように入筆することで、そうでないと傾いた線になってしまうからです。書道では線の重心が傾くことを「側筆（そくひつ）」といい、篆書、隷書の側筆は見苦しいものとされています。蔵鋒は後世の進化した筆で書かねばならない清朝以降の書人の苦肉の策です。篆書の時代にはそのような苦労はなかったはずです。<br />
<br />
　隷書が筆の弾性を駆使していることから、このころに新たな筆が生れたことがわかります。　始皇帝の時代に蒙恬（もうてん　？～210 BC）が筆の改良に一役かったとされていますが、彼は始皇帝に仕えた将軍で、匈奴の討伐に武威のあった人です。彼の配下にたまたま優れた職人があったのでしょう。このころすでに筆管が木製で、鹿毛を芯とし羊毛を被せた筆が出土しており、戦国時代のものでは竹管に兎の毛をつけた筆が長沙郊外の古墳から発見されています。外側の兎の毛は柔らかく、芯毛（心毛）はそれに弾性を加えるための工夫だったと考えられます。蒙恬はそうした改良を助成した良きパトロンだったのでしょう。<br />
<br />
　筆が弾力性を持って書く営みをより円滑にし、隷書は筆記用書体としての有用性を獲得するようになった、と私は考えます。孔子の生きた春秋時代の「筆録」からは、想像もつかないほどの利便性が筆にも付与された時代、すなわち紀元０年から100年くらい前までの間に、条件はほぼ整ったのです。<br />
<br />
　以上26からここまで、長々と文字が有用性を持つに至る経緯を述べてきました。書きやすくならなければ読むほうも大変です。このような下工作を経て、『論語』はようやく公的に筆録されるようになるのです。]]></description>
 <category>General</category>
<comments>http://www.seikeikai.net/essay/date_11-17-2011.html</comments>
 <pubDate>Thu, 17 Nov 2011 14:08:22 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[６　論語成立の一側面　43）隷書の特徴　求心的志向　]]></title>
 <link>http://www.seikeikai.net/essay/date_11-10-2011.html</link>
<description><![CDATA[　新たに登場した「隷書」は明らかに横長の特徴を　　　<b>【隷書　遠】</b><a href="http://www.seikeikai.net/media/2/20111110-39-2.jpg">null</a><br />
持っています。<br />
　横線を多用し、縦線を短くとります。巾の限られた簡冊に多くの文字を収めるための工夫です。左に流れる線は板の縁で「踏み留まり」ます。（左ハライは楷書のもので隷書にはありません。）右端は縁で留まるか、やや上方にシャクって板から落ちるのを避けます。終筆であれば古隷では右下方に引きます。次に来る字の邪魔にならないための避ける工夫です。<br />
　この右下に下ろす形が、後世になってシャクリ上げる「波磔(はたく)」へと進化するのですが、そのころには布や紙が普及し、簡冊はもう使われなくなっていて、隷書は幅の制約から開放され、隷書独自の波磔の美を追求できるようになります。<br />
<br />
　したがって初期の隷書は、左右に踏ん張って、膨張を抑えようとする「縮み志向、求心的な志向を内在する字形」だと言えると思います。簡冊の時代に不便きわまりない篆書にこのような字形の工夫、改良を加え、横幅に制約があっても「見やすく、書きやすい」スタイルへと改変したのです。いわば「有用性」が重視されたので、筆録のための条件を整えた結果です。<br />
<br />
　隷書の「求心的志向」という私の言い方を補強するために、ついでながら楷書の字形の特徴についても私見を簡単に<a href="http://www.seikeikai.net/media/2/20111110-0_11.jpg">null</a>述べておきます。　　<b>【楷書　欲】</b><br />
　「欲」という字を例にとりましょう。　隷書にない楷書の筆法は何と言っても「左右のハライ」です。また始筆は筆の穂先のトガりを見せる「露鋒（ろほう）」です。　<br />
　始筆のトガリは外界から筆が降り立って来たように見えます。収筆のハライは左右に果てしなく飛び行くかのようです。楷書はこのように外気を取り込み、外界へと伸びる「放散、拡散的志向」であると思います。なお楷書の特徴については拙書「天溪楷書の世界」の解説に具体的に述べておきました。<br />
]]></description>
 <category>General</category>
<comments>http://www.seikeikai.net/essay/date_11-10-2011.html</comments>
 <pubDate>Thu, 10 Nov 2011 12:14:40 +0900</pubDate>
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