大久保公神道碑 登場人物 関連墨蹟 1 - エッセイ論文

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大久保公神道碑 登場人物 関連墨蹟 1

1 大久保利通 文政13(1830)~明治11(1878)
 
 雅号は甲東。故郷では甲突川の東岸に住んでいた。
 この時代の藩士は上司に「建言」を書して認められ、書簡を交わし、報告書を提出し、政策の案文を書く。悪筆では読んでもらえない。生涯に筆を執る時間は現代の我々書家よりはるかに多いだろう。それゆえ武家に生まれれば早くから手ほどきをうけ、正しい草書を習い覚え、漢文の素読をやらされ、漢文、候文を日常的に身に着ける。
 そのような書環境に身を置いているので、芸術性はともかく、誰も書はそれなりに一家をなしている。現代のように電話やメールのない時代であり、郵便事業もこれから、という幕末であった。
 薩摩の郷中という若者組織にも書の師匠が居り、大久保や西郷は福島半助について習った。鹿児島に流行っていたお家流で、大久保と西郷の書とは似通っている。
 島津家には岳飛(1103~1142 中国南宋の武将)の草書「古戦場を弔う」が伝わっており、文天祥の跋がある。薩摩藩のお宝であり、藩の手本とも目されている。(真筆かどうかは疑わしい)大久保は藩主に認められるためにこれを拓本などで習っただろう。しかしお宝をそう簡単には披見できないし、字数も限られているから、手本足り得たわけではあるまい。
 幕藩時代には江戸定府育ちか、国もとに居たかでもその書歴は違ってくる。大久保のように下級の武士は若いころ定府に身を置くこともなく、江戸を遠く離れた薩摩にあった。いきおい地域の書の中で育つ。薩摩に唐様の書を広めたのは琉球の鄭嘉訓、鄭元偉父子だという。元偉は天保頃に鹿児島に来た。重野などは彼に習ったという。父子の書を見ていないので大久保がこれを学んだかどうかは私にはわからない。しかし薩摩は江戸から遠く離れてはいるものの、琉球を通じて中国の先進の書文化が直接流入する利点もあった。
 大久保は弘化2年(1845)に記録所書役助として出仕した。お由羅騒動までの5年間は書にいそしんだ毎日であったろう。嘉永6年5月に謹慎が解けて記録所に復帰し、御蔵役となった頃には書の腕もすでに一家をなしていたと思われる。

 西郷も大久保も一流の策士であった。「朝廷工策」とは言うものの「謀略の根回し」であり、騙し合いである。
 その書は上手くあってはならない。目立つからである。この時代「上手い書」は誰もが目利きであったから、もてはやされ話題になる。話題にされては策略は失敗する。ただし下手では馬鹿にされ信憑性も疑われる。したがって少し下手なのがよい。宛先の人物より「少し下手」で、その人の自尊心をくすぐる誠実な筆致が得策であろう。一流の策士は「策士らしからぬ、清潔な」字を書かねばならぬ。
 これに比べて大名の字は常に家臣に見られるものだから、おおらかで憶することがない。天皇も将軍も策略とは無縁で正論を体現する使命がある。同じ「清潔な」字であっても意図的なものではない。
 以下に取り上げる人物には策士もたくさん登場する。おおらかな天子も登場する。上記の私の物差しをあてがうにはかっこうの素材に恵まれているのでご記憶願いたい。




▼国家の気運 恢興せる時 志業十年終に違わず 是従り隣交永遠を期す
  将に自らを臨ま使め皇基を護らんとす

           明治五壬申孟冬 為 吉田賢晏

 下の三作(A、B、C)はどれも「国家の気運」にはじまる七言詩で、「甲東」の落款がある。右のBCは左Aを臨模した贋作であろう。クセを強調するのがニセものの鉄則で、例えば「志」「不違」が必要以上に強く書かれている。「十」は行頭に変わったために筆順を間違えている。(右から左に下ろして縦線につなぐ十の草書形はない。)「使」を「吏、更」のように書いているのも詩の内容が読み取れていないためであろう。崩し方もいい加減である。為書きは値が下がるのでニセは為書きを抜かす。
 これは明治5年(壬申)久光の側近となって10年、岩倉使節団に加わって欧米旅行中の作。条約改正を意図していた。為書きの吉田という人物はわからない。■24
  A               B              C
  















  ▼三條、岩倉宛 大久保書簡 


熊本縣令・島岡(敬明)より/左の通り電報到来/に付き奉供 高覧候へ
十九日午後二時十分発/本日薩賊招拠全く/抜ケ 然ルニ西郷桐野以下/精兵数百ヲ引ヒ エノタケ(本ノママ=可愛岳)ノ/絶壁ヲヨチ登リ我が哨兵/潨ヲ破リ西ニ向ヒ脱走/咥今ヒケキ(本ノマゝ)中ノ旨、山縣
参軍ヨリ報告ニ付捕傳/方手配中ナリ 此旨上申ス/台晩明朝朝就 陸軍/ノ報告マヅ上之候得共/為御心得竹文氏也/八月十九日 利通/三條殿/岩倉殿

 明治10年8月19日付けの報告。西南戦争末期の戦況が書かれている。この2日前に西郷軍が解軍し、残兵が可愛岳(エノタケとも言う)を突破して西に向かった。政府軍はこれを阻止し得ず敗北、山縣有朋が参軍(事実上の総司令官)として直接対処するほどの衝撃が走った。捕傳方を手配したとあるが捕えるには至っていない。「竹文氏を御心得と為し」は意味不明。
  




 ▼勅を奉じ単航して北京に向かう 黒烟堆裏 
  波を蹴たてて行く 和成り忽ち通州の水に下る
  蓬牎に閑臥すれば 夢自から平らなり
 明治7年(1874)台湾出兵の戦後処理に北京に赴いた帰途、通州での作。右は昭和初年ころの雑誌「書藝」に載ったもので、所蔵者名(得能通昌)もあり信憑性のある作。これに比べると左は「蓬」のアタマ、「勅、平」などおかしな崩しがある。■26
 
















▼ 大久保書軸  倒印の参考例 (p.70)

 自作詩ではないので甲東書となっている。
「書」の下の白文印はミゴト逆さまに捺されている。本人がこのようなポカをした場合当然書き直しである。市場に出回っては恥だから。
 これは印の上下もわきまえない人間が馬脚をあらわしたものである。「白雲生ずる處」の「白」と「生」の字が違っている。杜牧の原詩にあたって確かめもしていない。
 達者に筆を動かしているようでも、このような粗悪な贋物が出回って、どこぞの記念館に展示されているかもしれない。面白がってばかりもいられまい。

 
























 杜牧『山行』の七言絶句。遠く空山に上れば石径斜めなり 白雲生ずる處 人家有り 車を停めて坐ろに楓林の晩を愛す 霜葉は二月の花於も紅なり






掲載日時 2018 年 09 月 17 日 - 午後 08 : 18

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