3-1 般若心経の本文 (1)はじめに
(1) はじめに
写経が盛んになっている。写経用の紙、筆、はては写して書けばできるという手本まで出回っていて、解説書のたぐいも少なからず目につく。写経をするすべての人が熱心な仏教徒であるとも思えないから、これは不安定な社会情勢のなかで、心の安逸を求める一つの手立てとしての筆書がこうしたブームの底流にあるのだろう。
■■写経という奥ゆかしい伝統■■ 心をこめて経文を筆書し、それを寺院に奉納するというシステムが伝統的にある国、すなわち書のある文化の国ならではのいとなみである。表意文字を維持しつづけてきた成果だとも言える。西欧には民間人が聖書を書して奉納するという伝統や、それを受け取ってしかるべき儀式を執り行って経蔵のような場所に奉安するシステムがあるのかどうか。
私のところにも、写経をしたいがために習いにくる人がある。ひとつの目的を持って書を学ぶことは、ただ漠然と「お習字しよう」というより上達も早く、倦むこともない。たいへん結構である。またこのような動機を持って来られるかたは、何らかの参考書や、書写用の用紙つきテキストなどを購入されていて、はじめから極めて前向きである。
■■市販の般若心経は正しいか■■ さてそこで私ども「書く」がわの人間としては、「何を書くか」がつねにスタートになる。「般若心経」に決まっているじゃないか、と、簡単に言わないでいただきたい。この「般若心経」の本文そのものが、すでに問題をはらんでいるのであって、市販のテキストはすべて再考を要する。
以下にそれを述べるが、論点は二つである。
(1)冒頭の経題に「摩訶」をつけること。
(2)本文の後半に「遠離一切顛倒」と「一切」を入れること。
の二点について、これがマチガイであることを論じたいと思う。
掲載日時 2009 年 08 月 30 日 - 午後 05 : 50
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