2 楷書字形の変遷 - エッセイ論文

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2 楷書字形の変遷

 以下は「千字文」の解説の下段につけた【字形説明】の補足である。やや長くなったので、いずれ分割して読みやすくしたいと思っているが、当面はこのままスクロールして読んでいただきたい。

 従来の楷書史に相当するものは、楷書の名品を作家別、年代順に紹介・解説するにとどまり、字形についての説明はほとんどなされていない。これは字を書かない人たちが解説するからであろう。

 しかし私ども「書く」人間は「どう書くか」が常に主題であり「いかなる字形を採用するか」という問題をさけては通れない。「字形の変遷」は私にとって無視できないものであり、それを踏まえた千字文の解説を試みることも書家としての責務であろう。

 とりわけ現代にあっては、筆を用いて書く書道の楷書と、日常目にする活字字形との乖離が進んで、その距離は離れ行く一方である。活字の字形が伝統に沿うものであるなら、活字イコール楷書とすましていられるが、「外科的整形を受けた誤り多い活字字形」(白川静)とまで言われていることに対して、書家が無関心であってはなるまい。

(1)書道でいう楷書と活字の字形とは同じではない

 何となく楷書というのは「活字を筆で書いたもの」くらいの認識の人も少なくないであろう。この天溪千字文を見て、「え? こんなにも違うの?」という驚きの声もありそうだ。確かに書道で教える楷書字形は、初唐の名筆である虞世南、欧陽訽、褚遂良などをはじめとして、隋の智永の楷書などが基本にあり、この偉大な伝統を離れてはありえない。

 これに対して「活字」は後世にできたもので、我々の見る「明朝活字」は文字通り明代の、しかもデザイン化された字形である。明代の活字字形が初唐の楷書字形と同じならば話は簡単であるが、字形には変遷史がつきもので、ことはさほど単純なものではないのである。
 
(2) 楷書は蛇行の末、最後に出来上がった書体

null 書の五体のうち篆書が最も古く、次に隷書ができた。そのころすでに「早書き」の要請により草書があったとされている。楷書は2世紀頃の鍾繇(しょうよう 151~230)が先鞭をつけた。【右】鍾繇:宣示表

 しかし字形としての完成には存外時間がかかり、その間に東晋の王羲之がいちはやく行書、草書を完成の域に高めてしまったために、楷書は五体の最後に完成するのである。それが初唐であり、7世紀前半、誕生してから400年以上かかっている。

 楷書の誕生は、筆や紙の用具の変化も背景に、当時通用していた隷書からの脱皮であった。隷書とは異なる独自の字形を模索して、楷書は蛇行を重ねた。当然のことながら、手で書き継がれることで変容を余儀なくされる。時代とともに楷書字形は変化しつつ、楷書独自の字形の彫琢を進めたのである。

(3) さまざまな楷書の登場

 中国の国土は広い。中央で使われている楷書が辺境の地(たとえば敦煌)に及ぶまで、真似られ、書き誤ったりしているうちに、字形は変形し、同じ漢字でありながら異なった形に変身をとげたとしても不思議はない。

 印刷技術などなかった時代に、人の手を借りずして文字は伝達しなかった。すべての人が一つ一つの字の来歴を知り、篆書、隷書の知識を共有しているわけもなく、ただ見よう見まねで書き写すのだから、古形を保てといわれても無理であった。

 しかも漢が滅びた後は乱世だった。魏・呉・蜀が分立した「三国時代」を、西晋が統一した(280年)のもつかの間、わずか30年余で、今度は北方の匈奴をはじめとする異民族が次々と中国国内に攻め入った。

 たまりかねた西晋は(316年)洛陽を捨てて南方・建康にのがれ、東晋を建国(317年)、華北の奪回をはかったがかなわなかった。(この混乱のまっただ中にいたのが王羲之)。かくて国土の半分が「五胡十六国」の戦乱の場となり、最後に北魏が華北を統一した(439年)。
 この南北朝時代の南朝も宋、斉、梁、陳と王朝の興亡があり、(千字文の興嗣のいた梁がここにある。)落ち着かない時代が通算355年間に及んだ。ゆっくり筆を運び、楷書の美しい形態を模索するには平和がほしかった。

 楷書が誕生して成長する青年期は、例えれば崩壊家庭に育つみなし児同然だったといえる。楷書は各王朝のもとで、野放図に、ある意味では「おおらか」に、自然のままの進化をとげてきた、といえるであろう。また、長兄(篆書)はすでになく、次兄である隷書、早熟な姉である行、草書を見ながら育つという末っ子特有の家庭環境にも留意しておく必要がある。

(4) 統一帝国の必要性

 国家統治の大きな仕事は「文字の統一」である。これは漢字文化を有する国の宿命であり、西欧にはない特性であろう。これができるのは乱世の小国ではなく、大統一帝国だけである。中国でも文字統一に手を染めることのできた王朝はたった三つしかない。秦と、漢と、唐である。

 秦は篆書を、漢は隷書を、唐は楷書をそれぞれ「正字」とし字形の統一を図った。国土は広く官僚組織もケタ外れの規模である。国家の方針は正しく記されないと小さな齟齬が大きなダメージへと広がりかねない。三国および五胡十六国そして南北朝の時代にいやというほどそれを味わった統治者は、国土の隅々にまで意思の伝わる正字の確定こそ国家の大事と考えたに違いない。

(5)『干禄字書』の成立 第一の転換

 唐帝国がこれに着手したのは8世紀後半、774年の『干禄字書(かんろくじしょ)』からである。これについては私の『天溪楷書の世界』の「解説文」にも記したので、細かいことはここでは略して結論だけのべると、『干禄字書』によってそれまでの字形を正し、唐帝国の定める字形を確定したのであって、楷書字形はここではじめて統一された字形を持つことになる。

               【下:干禄字書】(杉本つとむ編著「漢字入門」より)
nullnull 『干禄字書』に取
り上げられた文字は1655字。何万もある漢字の数からすれば微々たる数に見えるかもしれないが、白楽天の詩に使われている漢字は4600前後、中国の文献を理解するに必要
な字数は6800程度だと白川静が言っている。1655字という数字は24%をカバーしていることになる。異体字は使用頻度の高い文字に起るから、これはかなりの漢字を補正したことになる。

 さて前にのべたように、書道の世界で我々が伝統的な字形とあがめて、今なお手本としてやまない楷書字形は「初唐の」楷書なのであるが、これは上記の区分にしたがって、この稿では「初唐形」と呼んでおく。楷書は774年を境に「初唐形」と「干禄形」とに分かれるのである。これがまず第一の転換点である。

 なお、用語の統一のために、このあとにのべる「旧活字形」とで三段階の変遷を踏むことになる。

 (6) 顔家の悲願 古い字形からの決別

 唐帝国の文字統一事業は「秘書省」が担当し、その初代長官である秘書監には古典学の泰斗・顔師古(がんしこ)が任命された。顔家はこの方面での学者の家系であり、経典(けいてん)の正義を確定し、文字を正す、いわばテキストクリティクの専門である。顔師古自身は「漢書」の注釈を行っている。
 
 顔家は一門の総力をあげてこの仕事に情熱を傾け、4世の孫・顔元孫(がんげんそん 7~8世紀の人)の時代になってようやく『干禄字書』の成立にこぎついた。(以下『干禄』と略す。)このあと『五経文字(776年』、『九経字様(833年)』を経て、顔家の「正字確定事業」は一段落する。『九経』までに200年ほどかけた大事業であった。

 書の人気作家・顔真郷(がんしんけい)は、顔元孫の甥であり、顔家の期待を担って、新しい「正字形」の普及に一役も二役もかった。
 顔真郷(がんしんけい)の楷書は、端整にしてスタイリッシュな初唐の筆法に革命をもたらしたのみならず、その字形においても、初唐形とは一線を画した干禄形を以って、古い楷書字形との決別を図ったのであった。世に「顔法」といわれる彼の筆法については、どの本にも書かれているが、「初唐形との決別」については不思議なことにあまり言及されていない。

(7) 唐の太宗 王羲之の心酔者

 唐建国の太宗(李世民、高宗の次の第2代に数える。597~649)は顔師古を秘書監に任命した皇帝であるが、困ったことに彼は王羲之の熱狂的な信者であった。ここに楷書の変遷史のねじれが生じる。

 彼の王羲之書蹟の収集は多くの逸話があり、ここでは略する。この時代の書は帝王の好みに迎合して王羲之一色に塗りつぶされた。さきの分類からすれば「初唐形」が太宗の時代の「正字形」であった。一口に「唐に楷書は完成した」というが、774年に至るまでの初唐の100年以上が古い伝統的な楷書の全盛期で、初唐の名手である虞世南(ぐせいなん)、欧陽訽(おうようじゅん)、褚遂良(ちょすいりょう)など、書の規範となる楷書は圧倒的にこれらの人の書く字形なのである。

 楷書を書く場合に、干禄字書以降の「新・正字形」と、太宗の時代の「初唐形」との二様があるのは上に述べたねじれの結果である。私が【字形説明】において、この字はこのようにも書く、と注記するのは、書道にあってはしばしば(というより頻繁に)後者(初唐形)を書くことがあるからで、「干禄形」にもとづく「活字」を見慣れた人が「え? こんなふうに書くの?」と不審がるのも無理はない。

(8)太宗の崩御と王羲之の書の埋葬

 649年に唐の太宗が崩御し、膨大な王羲之のコレクションは遺言に従って殉葬された。そんなことが許されるのか、と思う人は現代人であって、いくらオバマであろうが、ブッシュであろうが、ゴッホの絵を権力にまかせて世界中から強奪し、自分の墓に持ち去ることなどできはしない。しかし古代王朝の王威というものはケタが違う。

 古い字形の象徴でもある天才・王羲之の書は、真・贋あわせて、ほとんど姿を消した。これほど鮮やかな美術品の消滅は歴史上例を見ない。おかげで我々は太宗の選にもれた粗悪品、当時はびこっていた偽作、そのまたコピーなどしか今日目にすることができない。それですら名品ぞろいなのだから、早く太宗の墓を発掘して眼福にあずかりたいものだ、と願わずにはいられない。
 それはともかく、古い字形の象徴がある日残らず消えたのである。従来の楷書を否定する顔氏にとって、願ってもないチャンスが到来した。一門の新字形への改訂作業は一段と弾みがついたに違いない。

(9)楷書の篆書がえり  よみがえる『説文解字』

 『干禄字書』をはじめとする顔家の文字改訂計画は、何を基準に「改訂」したのであろうか。旧字の何が不満で直したのであろうか。

 太宗の命にこたえて顔師古は古本を精査し、五経の経文に見られる「異体字」を調べ上げた。その成果は『顔氏字様』にまとめられたというが、残念ながら今は失われている。
 しかし、その後の一連の改訂を見れば、顔家の基本方針は『説文解字(せつもんかいじ)』にもとづく改変であったことがわかる。いうまでもなく『説文解字』(後漢の許慎の編纂 100年頃の書)は、篆書の規範となる書道史の「聖典」である。当時も今も、これほどに完備した篆書字典は存在しない。今もって篆書字典は『説文』に採り上げられた字を見出し語とし、ほとんどの漢和字典が許慎の発案した「部首立て方式」を採用している。

 この聖典を根拠として楷書字形を「篆書字形」に近づける作業こそが顔家の基本方針だった。自然のままに進化してきた楷書を、篆書字形と照らして「著しく逸脱したと見做されるもの」を誤れる進化として廃したのである。いわば「昔がえり」を試みたのであった。

 確かに篆書字形をとどめた形態こそが、あるべき姿である、という気持ちは分からないでもない。伝統はときどき原初にかえる必要がある。初心忘るべからず、である。しかしこの昔がえり戦略は、強引かつ人為的であった。なぜなら、そのような字形も、その中間過程の字形もこれまでに存在せず、突然8世紀の後半に「お上によって」現れた楷書にほかならないからである。しかも時期としては遅きに失した。『説文解字』から800年もたっているのである。この800年間にさまざまな楷書字形が試みられ、統合され、整理された。これを跳び越えて「昔がえり」するなら、王羲之も無視されることになる。「強引な」と私は言ったが、お上による御用学者のまさに押し付けである。

(10) 楷書の正統性はどこにあるか

 すべての文字が篆書から発したのだから、篆書の字形を留めねばならないとしたら、隷書も篆書に近づける必要があろう。いや、それ以上に『説文解字』の篆書も(小篆なのだから)それ以前の金文にさかのぼり、さらに甲骨文にまでさかのぼって正統性を保たなくてはなるまい。しかし許慎は金文の存在を知らなかった。甲骨文にいたっては20世紀初頭にようやく発見されたのである。許慎が採り上げた篆書は篆書の長い歴史のうちの最終段階のものにすぎない。

 唐の時代には『説文』以外の資料も存在しなかった。したがって顔師古がこれを典拠にしたことは同情しうる。しかし現代の書家がこの「昔がえり」をどの程度まで容認するかは再考を要する。『説文』の記載そのものはすでに訂正を余儀なくされているし、金文や甲骨文字の解読・研究は著しく進んでいるのだから。

 さらに根本的な問題として、字形はオリジナル(さかのぼる先は甲骨文字)に基づくべきものなのか、ということも再考せねばならない。今日使用されている漢字は甲骨文字ではまかないきれない。
 書道では「澄」という篆書を書く場合に、澄の字は『説文』に記載されていないので、後世にできた字とし、意味が近い「徴」で代用することになっている。「千字文」の「淵澄取暎」がそうである。サンズイも「登」も『説文』にある。しかしこの組み合わせはご法度である。在来の部首を組み合わせて後世にできた文字を作成する原理・原則も整ってはいない。また『説文』がこの字形を把握していたら話は違っていたはずである。

 このように『説文』の呪縛は今なお続いているのであるが、楷書に話をもどせば、楷書は篆書が過去のものとなり、隷書を踏み台にしてスタートしたものであるなら、その隷書字形がすでに脱・篆書化を進めていたのだから、篆書字形との落差はあって当然ではないのか。そして楷書は楷書独自の美的変革の道をとって然るべきではないのか。紙は篆書の時代にはなかったし、筆も改良が加えられ、多様な表現が可能になっていたのだから。

 楷書のスタートにあって鍾繇(しょうよう)の字にも「異体字」が散在する。王羲之も「古い字形」の人であった。この二人を飛び越えて昔がえりする書道史に何の価値があろうか。

(11) 顔氏路線の深謀遠慮

 顔氏の改革路線は上記のようにかなり過激なものであった。恐らく太宗の在世中は公表をはばかられる内容であった。
 太宗の命をうけた顔師古が「顔氏字様」を執筆しながら、帝王の大好きな王羲之の抹殺戦略を密かにあたためて、それを顔家の基本方針にした、という想像はおぞましい気がするが、結果的には太宗への反逆にひとしい命がけの作業である。さればこそ表向きにはその牙は一応は隠されている。『干禄字書』は正・通・俗の三様に楷書を分類し、「正」は顔氏の主張する「篆書字形にもとずく正字」であるが、それまでの古い字形は「通」と「俗」とに分け、それが「誤」であるなどとは一言も言っていない。日常の公用文に通用する字形、手紙などにある字形と、一応は居場所を与えている。

 ところが重要なことは「正」とされた字形が科挙の試験に合格する字形なのである。書名の「干禄」とは「禄を干(もと)む」の意味で、「高級官僚の職にありつけますよ」と言わんばかりの受験参考書なのであった。

 牙を隠してはいるものの、これでは「正字」を書かざるを得ないではないか。いかにも巧妙に仕組まれた抹殺戦略である。いずれは宮中の官僚がすべて「正字」を書き、それが国内の津々浦々に波及するだろう、という遠大な文字改革路線なのである。

 それは太宗の死も幸いして、遂に833年の『九経字様』に至って正字を定体とする勅旨をとりつけるほどの成功を収める。もはや「通・俗」の字形を認めない。さらに九経を石に刻し(開成石経)、その後に『九経字様』を彫りつけて、経典(けいてん)並みの扱いとなった。この『開成石経』は後の五代の時代に経典の底本となるものである。
 ただし、本当の顔氏路線の成功は、次の時代、宋版の開刻によって完全なものとなるのであるが、それはこのあとのべる。

(12)顔氏路線の限界と挫折

 とは言え、ここには致命的な欠陥があった。網をかけることができたのは「楷書」だけだった。「行草書」にまでこの網をかけることはさすがにできなかった。太宗がはからずも王羲之の字を自らの墓の中に閉じ込めてくれはしたが、王羲之の行草書のコピーは法帖の形で、時代を超えて賞玩され、神格化され、書の規範であり続けた。伝統的な古い字形は行、草書に残ったまま引き継がれ、書の手本たる地位を譲ることなく、「顔氏の正字」とは無関係の、独自の路線を歩み続けた。初唐の字形はその美しさ、完成度の高さにおいて時代を超えて生き残った。顔氏路線は半ば成功し、半ば挫折したことになる。

 今五体千字文によって各書体を横並びに眺めてみると、隷、行、草の三者が字形を共有しており、「顔氏の楷書」がぽつんと孤立していることが見てとれる。この楷書を「初唐形」の楷書に置き換えると、隷、楷、行、草が仲良く字形を共有することに気付くであろう。これらの字形は隷、行、草と同時代を生きたからである。兄、姉を見ながら育った家庭環境の反映である。

 顔真卿の行書の断簡「魯公三稿」が残っている。(ニ玄社・書跡名品叢刊34) 面白いことに、初唐形にもとづく行書がしっかりと書かれている。例えば「微」は古い字形を『干禄字書』で否定して、現今の活字のようになったものだが、行書は「通」とされた字形になっている。【下左】 その右隣りは『干禄』で「上通下正」である。
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          「叔」も同じである。(【上中】、【上右】は『干禄』)
 このほか「軽」「歳」「発」「京」などにも古い字形が生きている。新正字形を広める立場にある顔真卿はどういう気持ちでこれを書いたのだろうか。「通」でよいと言っても、彼が示す楷書字形との整合性はないのである。しかもこの行書は見事な筆致である。これを見ると顔真卿も在来の行、草書に親しみ、伝統文字文化の中で書の道に励んでいた人であったことがわかる。事によると顔真卿は心の底では古い字形への愛着を禁じがたかったのではあるまいか。そう思って彼の楷書を見ると、自信に満ちた筆致の背後に、呻きのような声も聞こえるような気がする。

(13) 楷書の低迷 

 まがりなりにも国家の「正字」が定まり、楷書の字形放浪の旅も終結を迎えた。この後楷書は安定した豊饒期に入るはずであった。しかし歴史は必ずしも予定通りには運ばない。書道全集をひもといて見れば歴然と見えてくる事実がある。唐の時代には掲載される書の名品に楷書がずらりと並んで壮観である。ところが次の宋、元、明と時代が下るにつれて、楷書作品の掲載そのものが少なくなっている。

 具体的に言えば、宋では徽宗(きそう)、高宗の両皇帝、欧陽修(おうようしゅう)、黄山谷(こうざんこく)、米元章(べいげんしょう)が少し、元ではせいぜい趙子昂(ちょうすごう)、明でようやく文徴明(ぶんちょうめい)、清にやっと趙之謙(ちょうしけん)といったところ。あとはことごとく行草書ばかりである。

 楷書はあいかわらず正規の書体で国家的な規模で使われていたはずである。しかし書道史に残るほどの楷書の専門家は少ない、ということである。上記の二人の皇帝は正式文書に囲まれていた特殊な例で、これを除けば、北宋の蘇軾にしろ明の文徴明にしろ行草の人ではあっても楷書の人と呼ばれることはない。

(14)文化統制の弊害

  帝国の政治的安定が書道芸術活動の豊かさをもたらすはずが、こと書の「楷書」に関しては『干禄字書』がもたらしたものは予想外の砂漠化だった。楷書を書くことが書人のメインテーマではなくなってしまった。この楷書の低迷はどうしたことだろう。

 官僚の文字統制によって細部まで規制を施された楷書は、もはや書人の自由な芸術的発想の源泉ではなくなってしまった、ということであろう。
 およそ統制されすぎた文化は、やがて精彩を欠き活性を失うのが通例である。楷書は五体のうち最も制約の多い書体であり、公文書に使われるという性格からも分かるように、正確でなければならず、形式の恣意的な改変を嫌う。字形ががんじがらめに縛られて、次第に楷書は自由な芸術表現から敬遠される結果となる。一部の字形に与えたブレーキが、他の字をも萎縮させた。ニラミが効いたのであろう。

 書家の創作意欲は行、草書に向けられた。楷書の低迷に反比例して、行草書は豊饒の時代に入ったといえる。

 ふりかえって考えれば、王羲之の生きた東晋は激動の乱世だった。この中で行、草書を完成させた王羲之という人は何という超人であったことか。政治的安定がマイナスになる局面もあり、不安定がプラスに作用することもある。歴史の皮肉とはいえ面白いものである。

(15)宋版の先駆的事業  「五代十国」の第二王朝(後唐) 

 唐の時代にはほとんど「手書き」で本や巻子を作った。したがって普及の度合いも家内工業的なレベルであったと想像される。

 907年に唐が滅び、宋が興る(960年)までの50年間は「五代十国」の時代である。この第二王朝(後唐)のときに、先駆的な書物の出版が実現した。宰相・馮道(ひょうどう 882~954)のもとに、木版印刷が行われたのである。

 出版を担当する国子監にはテキスト・クリティクの専門家のほか、書家、版木を彫ったり摺ったりする職人などの専門家集団が組織された。九経(周礼、儀礼、礼記、春秋左氏伝、春秋公羊伝、春秋穀梁伝、易経、書経、詩経)の全体を刊行する一大事業である。完成は953年。宋の建国に先立つこと7年であった。

 宰相・馮道の理念は、九経のような古典は国家が正しいテキストを刊行すべきだというものであった。国家のプライドをかけたのである。したがって国子監の主たる使命はテキストの校訂、および注釈であった。手書き時代の誤写を補正する急務もあった。

 底本として国子監が用いたのは、さきに(11)でのべた9世紀なかば頃の「開成石経」である。これは唐の長安で作られたもので(その一部は現存する)、当時は石に刻することが最良の手段であった。拓本によって正しく伝わるし、原石の存在も永続性を持つと考えられた。今の我々が知るかぎりでは、失われた石碑もかなりあり、石も倒壊したり磨耗することもある。他の建材に流用されたりして、必ずしも石碑が残るとは限らない。それに対して木版は版木があるかぎり、量産が可能で、部分的な補修もできる。原石ひとつを数で凌駕しようというこの手法は、石工の労力に比べれば、はるかに楽で、また安く短期間にできるわけであった。

 宰相・馮道は4つの王朝にまたがってリーダーシップをとり続けた稀有な人物であった。彼の信念はブレることなく、王朝の交代劇を乗り越えて出版事業を継続した。

(16)宋版の字形 

 宋代(960~1279)に入って、馮道のひらいた理念が大々的に受け継がれた。本格的な木版印刷の時代に突入したのである。出版事業を国家が行い、国の威信をかけるという方針決定は、いかに木版印刷が新しい手段として斬新なものであったかを物語る。現代に置き換えてみれば、インターネット、光ファイバーの高速通信、地デジ放送などに国家が乗り出すようなもの、といえるほどの大変革であった。

 グーテンベルクに比較される宋代の印刷文化について述べることは、私の手に余るし、本稿の主旨ではない。しかし字形の変遷を追う上で、次のようなことには注目しておかねばならぬ。
 この国家的事業は正典のテキスト校訂とその注釈のためであり、テキストの正しさと字形は連動するものであった。もはや科挙の試験に合格するための便法ではなくなったのである。顔氏の新字形は、ようやく出版によって普及の道へと進んだ。

 版木に彫られたのは手書き、すなわちきれいな楷書である。筆者名と彫り師の名前が記されたところを見ると、まだ書の扱いがなされていたといえる。かくして量産が可能になり、普及度は一段と進んだ。書いてコピーを作っていた時代とは雲泥の差である。「干禄形」は確固たる出版界の顔となり、結果的に初唐の字形は出版物から排除された。宋版は後世の図書の基準となった。例えば印刷体裁、文字の大きさ、書家の表記、版権、出版者の表記(奥付)などがそれである。

 五代の方式を受け継いで、国士監が官版を担当した。儒教経典、正史、百科全書、字書、医薬書など一斉に開花する流れができた。北宋中期になると各地に書房ができ、民間の出版活動も盛んになる。三大産地は浙江、四川、福建である。また仏教界は独自に膨大な大蔵経を刊行した。スポンサーは国家ではなく信者の「寄進」である。これは「宋版大蔵経」として今日でも極めて資料的価値の高いものである。
 
 残念なことに宋版図書のほとんどが散逸している。2006年から2007年にかけて台湾の故宮博で宋版コレクションが陳列されて話題となったほどである。宋版大蔵経は日本の鶴見の總持寺に全巻あるが、門外不出で印影出版されるに至っていない。

(17)活字の登場

 元(1271~1368)もこれを踏襲した。大蔵経の復刻に関していえば元版が20年ほど前に台湾で写真製版された。この後の「磧沙版」と合わせて全巻刊行という思い切ったものだが、残念ながら刷りが悪く、文字も小さいので資料としては不十分である。何と言っても宋版が一番美しく、元版になると質が落ちる、ということである。これは国力の差というより、モンゴルの漢民族圧迫政策によるものであろう。

 元代には活字も次第に開発された。はじめは陶活字もあったらしい。錫活字も作られたようだが、実験的には実用化がならず、やがて木活字が一番手っ取り早い手段となった。ヨーロッパの印刷は油性のインキで、プレスするが、中国では伝統的に水性の墨による「摺り取り」である。画数の多い複雑な字もこれによって鮮明に刷ることができた。

 活字についてのべる前に「版下」と「書」との違いにふれておこう。書物の版木にはりつける書稿は「版下」と呼ばれる。彫られた後になくなる消耗品である。もとより読みやすさを目的としているので、同じ字は同じに書くことが望ましい。サンズイやウカンムリも変化をつけないほうが目になじむ。従って「同じように書く」という職人的な技巧が要求される。これがいわゆる「書作品」とは大いに違うところである。書作品では字形の繰り返しを避けて変化をつけ、筆法に独自性を持たせようとする。後世、木版書籍の全盛期になると版下の書き手も専門性を高め、一定の版面に字粒の揃った字を、課せられたノルマに従って粛々と作業をする「職人」となり、時間に応じた手間賃を受け取ることになる。作品の書料ではないから、芸術家を気取る書家からは一歩低い評価がなされることになる。こうして「誰が書いたか」は次第に消滅し、無名氏の字となり、書籍の中から書者の名が消えることになる。

 書の国ではさすがに「無名氏」の書ではかっこうがつかなかったのであろう。「書風」という付加価値をつけることが流行った。「欧陽詢風」とか「柳公権風」とかスタイルだけ似せた。しかしこうした小細工は字形を追跡する観点からは非常にまぎらわしいものでしかない。欧陽詢がそんな字形を書いたはずはないのだから。宋版のこれはだれだれ風書体を採用している、とどの本にもうやうやしく説明するのが常であるが、そんな小手先のことに賢命な読者諸氏は騙されないように願いたい。

 活字によって工芸品としての楷書が登場した。もはや書者の名は不要になった。同じ活字が量産され、手工業製品として活字が文字文化の担い手となる。
 当面の我々の課題にとって重要なことは、宋版の字形がそのまま活字の基本となったということである。書物の中では「初唐形」は部外者であり忘れられた存在であった。活字を作るために、書家の出番はなく、出版者と彫り師が打ち合わせればよかった。今日の編集者とフォントデザイナーとの共同作業のように。

 デザインの整合性をはかることはあっても、何故その字形なのかという文字の本質を考える発想は起らない。字形を批判的に見ることは「書」に携わる者しかできない。活字化によって「筆で書く書」から「読むための字」となり、「読めても書けない」という現象をきたすことになる。文字はレタリングとなり、書道との乖離は決定的になった。今日の活字字形が「初唐形」を主とする書道と整合しない遠因は、『干禄字書』に起こり、宋版における形だけの夫婦が、その後にできた活字によって完全な「別居状態」になったといえるであろう。

(18)明朝活字

 明朝活字は史上最強の「字形デザイン」であろう。今日の出版物はほとんどすべてが明朝体の活字をもとにしたフォントを使っている。活字はすでに過去の遺物となり、その後に使われた「写真植字」もなくなり、フォントの時代になってもこのデザインは相変わらず主役なのである。

 このデザインは臨安書棚本の復刻、すなわち1553年(明の嘉靖32年)に出版された『墨子』に始まるという。このとき筆画の直線化がなされ、縦横の線の太さを変え、横画の最後に「ウロコ」と呼ばれる三角山がつくなど、現在の明朝体のスタイルが考案された。このスタイルはその後、万暦年間の刊行数の増加により、爆発的に増殖、明代に発する文化遺産としてギネスブックに記録されてもよいほどである。

 明朝体については他の専門書に譲ろう。ここでは字形と明朝体デザインの違いを指摘するにとどめる。
 明朝体の第一の特徴はヨコ線が細く、タテ線が太いことであろう。これは漢字にはヨコ画が多いことを反映している。一定のスペースの中に一字を収める場合に、ヨコ画を細めにとらねばならないことは書においても同様である。しかし、画数の少ない字はそのかぎりではない。しかし明朝体はデザインの整合性のためにすべてこの原則を貫く。

 ヨコ線の右端(収筆)に三角山がつく。専門用語では「ウロコ」というらしい。もともとは収筆の押さえによるトメのふくらみからきた形であろう。明朝体ではすべてのヨコ線にこれがつく。しかし書においてはトメのふくらみは必ずしも多くはなく、収筆を「抜く」ことが普通である。毎回筆を押し付けてタンコブを作っていてはうっとうしいので、せいぜい一字に一箇所あればよい。しかし活字を見慣れた人はこれをトメの形だと思いかねない。

 ヨコ線の起筆部分は線を斜めにカットした形にデザインされている。(これをラッパというらしい)。書の場合は筆の穂先がとがるので、先端がちょっと突き出る形になる。この先端の出方と向きによって微妙な空間処理を行うのが書道だが、ラッパは一定で、先端は上に出ない。驚いたことに最近の「書写」の教本を見ると、みごとにラッパ形の筆書が手本になっている。活字が書道をリードする時代になりつつあるのかとさえ思われる。

 明朝体では画数を表現できない。デザイン化が進んで、1画のところが2画になる場合がある。例えば「衣」の4画目は下ろしてハネ挙げるまでが一筆(1画)だが、筆の返りを強めて2画に見える。(見かけ2画と称するらしい。)デザインとしてはそれでも構わないのだが、漢和辞典は明朝体活字を用いているので、「衣」は7画に見える。最近では7画にしてしまった辞書まで登場した。そのほうが引きやすいのだろうが、前途が危ぶまれる。

 最近の活字からは姿を消したようだが、旧活字は「文」の3画目のアタマに「ふでおさえ」と称する短いぶら下がりがついていた。これなどは果たして何の意味があるのか不可解である。さすがに現今では要らないと考えられたのであろう。同じように旧活字では「シンニョウ」に二つ点のものが混在し、何故区別するのか意味がわからない。しかし近年の「常用漢字表」ではこれを復活させるらしい。いたずらにまぎらわしいだけのことである。

 書においては後の筆が前の線と交差するときに、ちょっぴり突き抜けたり、あるいは前の線を飲み込んだりすることがある。例えば「女」の3画目が2画目のアタマを飲み込んで隠してしまうことも、突き出た形になることもある。しかし、活字はランダムに変っては困るので、「女」の3画目のヨコ線の上に2画目のアタマを突き出さない形になっている。書においてはアタマが出ることのほうが多いのだが、これを学校で「突き出してはいけない」と教える先生が出ないともかぎらない。こんなことで「書き取りテスト」にバツをつけられる子供はとんだ災難である。

 このほか「ハコガマエ」と「カクシガマエ」のまぎらわしさ、「亡」という字の篆書体との不整合、タテ画の「トメ」と「ハライ」の区別がつかないなど、明朝体の問題点はさまざまある。「明朝体は楷書を様式化したもの」だとは言えないのである。

(19)康煕字典 第3の転換

 清代になって康熙帝の勅命により、『康煕字典』が成立した。(1716年) 全42巻、収録文字数4万2千もの過去最大の字書である。もっともこの字数については、「無用の異体俗体字を加えたためで、語彙に用いる字が増加したのではない。」(白川静)ともいわれ、いたずらに文字数を誇ることに警鐘をならしている。

 『康煕字典』の大きな特徴は、篆書字形の活字化をさらに強化徹底したことにある。『説文』をできるかぎり楷書化することが正しい字形のあるべき姿だ、という主張である。この復古主義が活字字形をさらに昔がえりさせた。これは清代におこった考証学の影響が多分に尾を引いていると思われる。実証的に古典に帰るべきだとすれば、当時は『説文』こそかっこうの「聖典」にほかならない。

 『干禄字書』では旧来のままでよしとした字形も改変のエジキとなった。例えば、「来」は來(ヒトヒト形)に改められた。「者」には点を加えた。「唐」の5画と7画目は突き出すことになった。「發」の「攵(ぼく)」はご覧の通り、「殳(しゅ)」となった。現行活字の旧活字はほとんどこの形である。「羽」の旧活字は「挧(く)」のように下に垂れる形に変えられた。2点のシンニョウが現れた。現行の活字はこの2形が混在している。青は月の中を丄にした。真は眞となり、その徹底ぶりは『干禄字書』も顔負けする。

 『康煕字典』の字形が活字の「正字」とされ、現今の漢和辞典の典拠となった。もっとも「内府本」との異動などがあり、何をもって正字とするかには問題もあったが、それはともかく置くとして、民間ではともかく、それまでに公的に認知されていない「來」のような字形が18世紀になって「正字」とされ、後世の辞書の規範になった、という異常さは、もはやとやかく言える段階ではないところに来ている。※(我が国の『新撰字鏡』(898~901成立)に「來」の字形があることを読者のかたからご教示いただいた。『干禄字書』成立後ほどなくして、民間では「篆書がえり」が行われはじめたと思われる。)

 私のサイトの「千字文」の【字形説明】にも具体的に指摘しているように、例えば「蓋」なども『干禄』では「盖」という「初唐形」をそのまま採用していて、「蓋」のような強引な篆書造字をしてはいない。楷書字形の変遷史では「盖」として決着したものであり、自然発生的に進化、彫琢されたものである。だからこそ、この草書字形も「盖」形をとっていて、相互に整合性がある。『康煕字典』は「説文至上主義」に陥ったために、こうした初歩的な検討を怠ったのである。

20 高田竹山(忠周)の影響

 『康煕字典』の影響は甚大であった。我が国においては「五體字類」など先駆的な仕事をした高田竹山(1861~1946)がその急先鋒となった。『補正朝陽字鑑』、『十體字範』、『体系漢字明解』など、今日も復刻を重ねている字形学の基礎をおこしたこの人は、従来の活字すら信用せず、ひたすら篆書字形の楷書化を極端なまでに行った。彼はその信念を貫くために、自著のすべてを丹念に「自筆で」書き起した。『康煕字典』の活字さえ彼にとっては信ずるに足るものではなかったようだ。

 いま竹山の『六體千字文』を見るとその主張が明らかに見てとれる。同時に行、草書との「不整合」がはからずも露呈していて、これだけでもすでに「楷書の篆書化」が、書法史的には破綻をきたしている面白さがある。

 私の父天溪はこの竹山全盛期に生きた。したがって竹山の影響が至るところに現れている。【字形説明】においてはつとめてそのことも記すように心がけておいた。身びいきにならぬよう自戒の意味をこめたつもりである。すでに書き及んでいるように、私は「楷書の篆書化」(あるいは篆書形の楷書風造字)を無条件によしとは思わない。そこで最後の章として、次の21に「北魏派」のことを記してこの稿を終了することとする。

21 北魏派の登場

 明治13年(1880)に清国公使の外交顧問として楊守敬(ようしゅけい 1839~1915)が来日した。彼は金石学者であり、潘存(はんそん)のもとで北魏の碑拓を集め、『楷法溯源(かいほうそげん(1878刊)』を編纂した人物である。この書は当時珍しかった「北碑」を多く収録し、旧来の帖学派に対して「碑学派」としてきこえていた。

 これらの新資料は法帖でしか学んだことのない我が国の書人たちには驚きであった。いち早く楊への接触を求めたのが、日下部鳴鶴、巌谷一六であったことはどの本にも書かれている。北碑の書道史への導入は、本家中国ではなく日本の書家によってなされたのである。これについては、私の『天溪楷書の世界』の解説において述べているので、ここではふれない。
 
 ここで注目したいのは鳴鶴の動向ではなく、新資料たる北魏の楷書である。つまり唐以前の「楷書揺籃期」の北方における字形が見えてきたのであった。そして、初唐で完成した楷書字形が、さかのぼって隋、さらに北魏等において、すでに定着しつつあったことを、これらの資料は物語っていたのである。

 楷書は楷書独自の路線を、南北に分断されながらも歩み続け、自らの彫琢を試み、驚くべきことに南北の相違はほとんどなかったのであった。初唐形は突然初唐に現れたのではなく、すでに北魏の時代から定着しつつあった。これらの先人たちの業績を『干禄字書』は「通」「俗」と片側におしのけ、自分たちの造形した「篆書風楷書字形」を「正字」と定めた。かくしてこれが現今の活字の字形となってしまったのである。以上が楷書字形の変遷史の帰結である。(完)

 









掲載日時 2009 年 05 月 17 日 - 午後 03 : 58

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