1 千字文(せんじもん)解説
1) せんじもん
日本では「せんじもん」と読みならわす。
漢字発祥の国・中国では「一漢字一発音」が原則であり、北京と上海との発音の違いを、何とか北京音に統一したいらしい。少なくとも「千字文」には特別な発音というものはない。しかし我が国では「一漢字複数発音」があたりまえなので「文」は「ぶん、もん、ふみ、あや」と読み分け、「文字」では「も」とも読む。固有名詞は特別扱いだぞ、と言わんばかり。このような複雑な文字文化の中に生きている我々は、これを誇っていいものか、考えてしまうが、「せんじもん」と読まないと、知らんのか、と言われそうで恥ずかしいという「恥の文化」があるので、のっけから、どう読み慣わしているか言わねばならない。私としてはどっちでも構わないのだが。
2) 千字の詩
さて、「千字文」は千字からなる詩文で、一句は4字2行、全125句で千字。すべて異なる漢字が使われて、しかも八字ごとに韻を踏む。
同じ漢字を使わずに千字の韻文を作る、という魅力的な課題は文字の国らしく古くからあった。この千字文の前に、すでに2世紀ごろ鍾繇(しょうよう 151~230)が試みたし、宋には胡明仲が、明には李登が、清には貞珂月や銭俊選など何人かの才人が成功している。しかしいずれの作も世に行われず、ひとつ周興嗣のこの千字文だけが生き残った。わかりやすい内容、使用文字の平易さ、覚えやすい押韻などに工夫があったためであろう。
3) 作者・周興嗣(しゅうこうし)
梁の国の秀才文官で、姓は周、名が興嗣(こうし)、字は思纂。5世紀前半から6世紀にかけての人である。(生年不明~521)
秀才の誉れ高く、13歳で京師(今の南京)に遊学、研鑚十余年ののち仕官、斉の国(南斉)の丞の地位にまでのぼりつめた。省の副長官クラスに相当しようか。この国はやがて配下の梁公に背かれて瓦解することになる。
王位を簒奪した新王・武帝は502年に「梁」を建国。前の王朝の官僚であった興嗣は本来ならリストラされる身であるが、文名が幸いして武帝に抜擢され「員外の散騎侍郎」という肩書きを持つ身となった。この部署は公文書の草案作成に携わる高職であり、門下省に属している。
4)作者の肩書き
「散騎侍郎」の職名は古く秦代にまでさかのぼるらしく、王の輿に騎馬して侍る、という近衛兵のような側近であった。梁の時代には騎馬することのない文官である。
「員外」というのは正規官僚の外、定員外、という位置付けを意味し、前王朝の家臣を無条件で正員にはできなかったのであろう。今でも「客員教授」のような言い方があるから、実質的には俸給体系は別枠、勤務時間の制約の少ない「客員扱いの名誉職」であったかもしれない。
「千字文」の冒頭に「梁の員外・散騎侍郎・周興嗣が韻を次(つい)ず」と記すのは上のような事情による。武帝の勅命なので「梁」のかわりに「勅」とすることもある。「勅」がアタマにつく文書は中国ではこれが別格であることを意味する。日本なら葵のご紋、いや菊のご紋つき、というわけである。
5) 公文書の作成
公文書は勅をはじめとして命、表、讃、檄などさまざまある。王の威信にふさわしい格調の高さ、威厳をそなえた文章でなければならない。最近ではオバマ大統領の就任演説が好評だったが、民心をキャッチする文言はどこでもそれなりの苦心がある。二朝につかえた興嗣にはそれができる高度な教養と、文才があったということである。四書五経をはじめとする古典、記伝に通じ、文だけでなく筆もたつという祐筆の能力も高かったであろう。
文書の中には国家的な機密を要するものもある。皇帝の私信、秘信などもあろう。これにかかわるからには特別な秘書官をも兼ねる。晩年、興嗣が病に倒れ、両手、左目が不自由になったと聞いた武帝は「この人にしてこの疾あるか」と嘆いたという。武帝の信頼のほどがうかがわれる。
6)千字文成立の背景
「千字文」は梁の武帝が周興嗣に命じて作成させたものだが、これを「創作」とはせずに「復元」としたところに「いわく因縁」がある。この種の話はほとんどがフィクションであると考えてよろしいが、この「オヒレ」の面白さが千字文の普及に果たした役割も小さくはない。
「いわく」とはこうである。書の大先駆者として2世紀ごろに鍾繇(しょうよう)という人があった。楷書の初期の大成者として喧伝されていた。この人に千字文があったと先に記したが、この原本はとうの昔に散逸して伝わらない。かろうじて破損したものを東晋の王羲之が写したという。この写しもとうの昔に散逸して伝わらない。その幻の王羲之写本を梁の武帝が入手した。二重三重につかみどころのない話であって、武帝のものも贋作に相違ない。これがまたまた動乱の際に持ち出されて、はなはだしくダメージをうけた。武帝はこれを惜しんで興嗣に復元を命じた。これにこたえて、興嗣は一夜にして成したといい、ために髪の毛が真っ白になったと伝えられる。
いわば興嗣は書聖・王羲之の写した鍾繇の千字文をほとんど創作に近くよみがえらせた、ということになる。書道史上の巨星を二人も登場させた潤色で、明らかにやりすぎのきらいがあるが、どうせなら話はおもしろいほうがよい、というのが中国流である。
7) 智永の活躍
書聖を担ぎ出したために、千字文は書人たちが無視できないものとなり、とりわけ王羲之七世の孫・隋の智永が真草千字文を書きに書いて800余も諸寺に奉納するという、印刷技術のない時代の大事業を敢行した。毛並みのよい人気作家・智永の住む寺は門前市をなしたという。楷書のことを当時は「真書」といい、楷書のとなりに草書を配した親切な「真草千字文」は格好の教科書であった。このテキストの宣伝効果は抜群だった。今も智永の千字文は書家必携の書のひとつである。
やがて楷書の完成期となる唐の時代がやってくる。欧陽訽(おうようじゅん)、褚遂良(ちょすいりょう)、孫過庭(そんかてい)、張旭(ちょうきょく)、懐素(かいそ)などの名だたる書の花形があいついで楷、行、草書体の千字文を著わし、ついに興嗣の千字文は書史的な意味で、書家の共通課題となった。
8) 書体の確立と総集
千という文字数は生易しいものではない。これを全うするには自分の書体を確立させておかねばならない。その意味で唐代の一流の書法家が競って名作を世に出したことは、書家の「書体意識」を大幅にレベルアップすることとなった。この後、一流の書家で千字文を手がけない者はないほど、これは書家の踏み越えるべきハードルになった。
楷書だけでも大仕事であるのに、篆書、隷書、楷書、行書、草書の五体の千字文ともなれば、これはもう一生の大事であろう。日本においても幕末の巻菱湖(まきりょうこ)、貫名菘翁(ぬきなすうおう)、明治の日下部鳴鶴をはじめ、中林梧竹、西川春洞、村田海石、小野鵞堂、吉田苞竹、などなど多くの大家が千字文をものにしており、中には三体、五体、六体もの千字文を残している。
自分の書体を体系的に千字も公表する、という難事はそうやすやすとできることではない。近年ほとんどこれに挑戦する書家がないのは、その場かぎりの展覧会至上主義に追いかけまわされて、自分の書体を千字もの体系に総集しうる気骨と基礎体力が(私を含めて)衰えているためであろう。
9) 千字文の内容
千字文は天地の理にはじまり、自然、季節、天文、政治、経済、人事、人倫、歴史、地理、景物その他およそ人間世界のあらゆることにふれており、極めて広範、雑多ともいえる内容である。中には「夫唱婦随」「上和下睦」「知過必改」「女慕貞潔」「「禍因悪積」など分かりやすい道徳もある。
もともとが文字遊戯から発しているので、文学的には評価の埒外にあるらしく、有名なわりには文学として扱われていないようである。しかし書の世界では手習いのために一般の素養としてこれが推奨された。一般といってもハイレベルの貴族階級を想定せねばならないが、そのような文化背景が厳然としてあった、という文字の国ならではの営為を見落としてはならないだろう。
10) 意外な実用性
千字文がポピュラーなものになるや、意外な実用性が生じた。すべての文字に重複がない、という特性を逆手にとって、何と序数の代用とすることを考案したのである。もともとアルファベット26文字のような文字の順序はこの国には存在しない。おびただしい漢字が分類整理の高いハードルとなって、部首だけでも複雑な体系をなしており、これだけでもすでに文字分類学の一大研究テーマたりうる。
千の漢字が、覚えやすい四字成句で順序よく並ぶことが、知識階級の共通知識となれば、五百二十三と五つの漢字を連ねるより、523番目の文字「茂」だけで事足りるのである。中国のやり方は、たちまち日本にも伝わる。私はかつて鶴見の総持寺の経蔵を瞥見することがあったが、膨大な宋版大蔵経の函ごとに、天・地・玄・黄・宇・宙・洪・荒・・・の文字が一つずつ振り当てられ、さながら整理番号の代わりを果たしていることに感心した。もっとも、千字文をそらんじていない者にとっては「茂」の次が「實」であることは分からない。そのような不便はあるものの、僧侶たちはこれによって当該の経典を探し当てることができたのである。
11) 千字文の注釈書
北斉(ほくせい)の李暹(りせん 6世紀)の注をはじめとして千字文の注釈書は多数存在する。ハンディなものとして岩波文庫の千字文(小川環樹、木田章義)もある。清の孫呂結の注にもとづく茅原東学の『千字文考正(昭和11)』を私は主として参照したが、この書に限らず、千字文の注釈書は語句の出典を列挙することに重点がおかれており、この方式を踏襲するものが多い。出典網羅ばかりで、肝心の本文理解に資することのない記述もある。また文字を一字ずつ分析して違った解釈を導き出す手法は、「同じ字を使わない」という千字文の原則を忘れることになりかねない。同じ意味でも字を変えねばならないのがこの千字文の宿命である。
そのようなことを勘案して、本文の文意をできるだけ素直に受け止めるよう心がけた。従来の解説書とは違う訳文を提示しているのでお楽しみいただきたい。
掲載日時 2009 年 04 月 30 日 - 午後 12 : 37
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