大久公神道碑 登場人物関連墨蹟 2
2 西郷隆盛 文政10(1828)~明治10(1877)
雅号は南洲。はじめ福島半助にお家流を習った。初期の手紙はお家流である。斉彬に取り立てられた頃にはすでに京都や江戸に出て多くの名士と交わっているので、書はほとんど完成していたはずである。おそらく弘化元年(1844)に郡奉行・迫田利齊の配下に編入されてからが仕事(郡方書役助御小姓与)がら毎日筆を執らぬ日がない日常だったはずで、嘉永3年のお由羅騒動で謹慎するまでの6年間に西郷の書はほぼ固まったとみてよかろう。安政3年に農政についての上書を提出、これが江戸表の藩主・斉彬の眼にとまった。29歳の西郷の書と漢文とが立派に通用し、出世のきっかけになった。
沖永良部島に流されたとき、書家・川口雪篷(1819~1890)と交流があった。雪篷は通称量次郎、島津家の定府の武士。つまり江戸育ちで安政になって鹿児島に来た。少しの間久光の国史編纂を手伝ったが、藩の蔵書を古本屋に売って酒に替えたのがバレて沖永良部島に流され、そこで西郷に逢った。二人はよく書を論じていたという。蔵書の横流しだけで遠島、しかも沖永良部島とは刑が重すぎる。呑兵衛にかこつけた俗説であろう。(西郷同様久光の抹殺名簿に載ったとすれば江戸表で斉彬の密書に関与していたのかもしれない。)雪篷は西郷に国父を批判したはずである。しかし西郷は大久保の取り立てを信じて用心深く書だけに話題を限っていただろう。沖永良部島の西郷の滞在は1年6カ月。この間に読書に励み『言志四録』(儒者佐藤一斎の語録)を頭に叩き込んだらしい。(雪篷は赦免後、西郷家の食客となって明治まで生きた。) 西郷の書❶❷
西郷は維新前後には鮫島白隺(=鶴)(1773~1859)(図❸)に習ったとも言われている。白隺は鹿児島城下に生まれ、幼時から書に巧みで、はじめ馬渡八大に師事した。江戸に出て昌平黌に学び、その後京都、琉球等各地に赴任、長命で京都在任中は近衛家にも出入りしていた。書に関しては藩のエリートコースを歩み、西郷とは比較にならない。西郷の書は白隺にそっくりと言われるが、55歳も年長の人である。恐らく習ったことはないだろう。
その他西郷、大久保は黄檗宗の独立性易(1596~1672)(図❹)を学んだとも言われる。
独立は江戸初期に渡来した清国、臨済宗黄檗派の禅僧。医術、書法、水墨画、篆刻を伝えた。その書の識見は高く、中国伝統の本流の書(唐様と称する)を教示した。西郷、大久保はこれを臨書して学んだ。西郷の唐詩や大久保の李白詩などの筆法がこれであるという。見る機会はあったであろう。しかし習ったかどうか。
西郷の書をおだてるために他の書家と関連づける試みがなされただけで、ほとんどの場合は西郷信者の思いつきであると考えてよい。
幕末の元勲の書には贋物が多く、その中でもダントツ一位は西郷である。贋作づくりは癖を真似るので、西郷の掛け軸の大字がよく真似られ、労多く、まね甲斐のない書簡の細字偽作は少ない。下の勝海舟宛の書簡は、だから比較的信憑性のあるものであろう。
西郷の贋作を専門に手がけた人物は3人知られている。桑畑と言う人の贋作が最も多い。故に左頁に載せた書も怪しいわけで「さすが西郷の書に気迫がある」などと言っても、それを真似ているのだから贋作ヅクリの術中にはまっているに過ぎない。
西郷に比べると大久保は「書簡に見られる小字」と「軸物の大字」との差が少ない。ただし真筆は少なく、市場に出回る大久保書も殆どが贋物だそうだ。鑑定に印影の比定が重要なのは言うまでもない。中には逆さまに押印して平気なニセもある。(巻末「補遺2」p.85)
西郷の綺麗な楷書が京都の東福寺裏山にある。薩摩の戦没者500余名の墓すべての氏名を西郷が書いた。これなどはニセを作りようもないので珍しく本物である。
西郷墨蹟❶❷
❶推倒一世之れ智勇 開拓萬古之れ心胸(陳亮)南洲書
❷春に入り毫端彩霞を散ず 無辺の生意 穠華を繞る 院鈴不動 文書静かなり 熟して芙蓉並びに蔕花を得 南洲書
❸鮫島白隺の書 橋を通りて野色を分け 石を移して雲根を動かす 七十七翁白寉
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