私の能楽鑑賞 (30)「胡蝶」 勝海 登  - エッセイ論文

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私の能楽鑑賞 (30)「胡蝶」 勝海 登 

30 「胡蝶」 勝海 登

 
◆空想世界の構築
 川端龍子に「炎庭想雪図」がある。南国の芭蕉や百合に何と雪が積もっている。才気煥発、したたかな描写力を誇る龍子は現実には起り得ない夏と冬を融合してイメージのみが創造しうる「炎天下の雪」を六曲一双の屏風に現出させた。




 「胡蝶」という能は龍子のこの試みに似ている。
 梅花に蝶を舞わせるという趣向は、四季に限定された日常を解放したい、ここにないものを持ってきたい、という極めて空想的な美意識のなせるわざであろう。梅花は早春で「雪かと見まがえる」歌が万葉集にはたくさん出る。蝶が舞う春はもう少し後の花の季節、菜の花の頃だから、せっかく梅が咲いても蝶の登場はまだない。そこでないものをあるように現出させよう、という「早春の雪ならぬ蝶」の出番になる。蝶の身になってみると、いろいろな花とは戯れることができても梅花にだけは縁がないのを残念に思っていた、となる。
 龍子が平面に挑んだことを能では舞台空間に歌い上げようとする。いきおい時間の流れが加わり、より舞台化への試みがなされる。
 観世会夜能(3/9)のシテ(勝海 登)への期待と興味はその意味で時宜を得ていた。
 私の住む陣馬街道沿いの梅林は今が盛りで、前日に降った淡雪もすっかり融け、「夢待つ春の」日射しである。もちろん菜の花やモンシロチョウにはほど遠い。ほど遠いものを近づける手順がワキのお膳立てにかかっている。 

◆うらさびれた旧跡
 後見が梅の木の作リ物を正面先に置く。観世は他流のように紅梅ではなく白梅である。
 ワキは吉野の山奥から花の都にやって来る。「高嶺の深雪まだ冴えて」というから山奥の吉野はまだ雪が消えていないらしい。あこがれの「花の都」は都の西北、一條大宮というさびれたところ。昔、光源氏の遊んだ「由ありげなる古宮」の跡で、苔むした軒の檜皮(ひわだ)に車寄せだったらしいあたりの、階(きざはし)に美しい梅が咲いている。僧がこれを眺めていると里女が登場するというお膳立てである。この日のワキ(村瀬 純)は重すぎず軽すぎずサラリとシテを導いた。「胡蝶」にはふさわしい幕開けである。
 シテ(里女)は面は若女、白襟の摺箔唐織という清楚な感じ。
 梅を際立たせるうらさびれた旧跡は、光源氏が童たちに蝶と鳥を舞わせた詩歌管弦の御遊を現出させる舞台背景である。
 里女は「昔恋しき我が名をば、何と明石の浦に住む海士(あま)の子」だという。これは「定めなき身」を出すための本歌取りにすぎず、胡蝶の精が海人の子と言うのはおかしい。「まことは我は人間にあらず」と言い直して正体を明かす。

◆クセで中入り
 クセは「荘周の夢」を引き出す。「荘子」齊物篇の夢で胡蝶となって覚めたら「一睡の間」だったという故事。まあ穏当な連想であろう。「うつつなき世」「定めなき世」はこの廃墟であり、かつて光源氏は胡蝶の舞人に「金の花瓶に山吹を挿して」、鳥の舞人には「銀の花瓶に桜を挿して」舟に飾らせた。この昔話を引き出してクセの中入リとなる。

◆花の臺が下臥とは
 ワキの待ち謡は「あだし世の夢待つ春の假寝(うたたね)に、頼むかひなき契りぞと、思ひながらも法(のり)の聲、立つるや花の下臥(したぶし)に、衣かたしく木蔭かな」という美文である。
 「法の聲」というのは梅花に縁のないことを嘆き恨んで僧に佛果としての「花の臺(うてな)」を与えてほしいからである。
 ここで「頼むかひなき契り」と言っていることにちょっとこだわってみよう。
 胡蝶の精は人間ではないから前シテ が女であってもいい。しかし花と契るのならばこれは男の発想である。花から花へあちこち移り歩く。梅花はそれを「下臥し」で待ち受けるたくさんの女性である。そもそもこの胡蝶はまだ梅の花とは契ったことがないので、という浮気男の願望から出ている。作者は観世小次郎信光だと言うが「契る」は言い過ぎであろう。私は根が下品なせいかこういうところが気になって、素直に「さようでございますか」とは思えない。「蝶と花との美しい戯れ」でよいところを余計なことを言ったために、あらぬ嫌疑をかけられる胡蝶の精はいささか品のないことになってしまった。
 はからずも信光の男の本音が出てしまったのだろう。 


◆胡蝶の喜びの舞  
 季節を先取りしたような胡蝶の登場、現実には見られない取り合わせの妙が後ジテの舞なのである。面は増か。少し大人の風情。黒垂に蝶冠、長絹をまとい(舞衣もある)、着付は摺箔、色大口。中之舞はしっかりとしていた。
 初めの龍子流の発想に戻れば、仏果としての季節外れの世界がここに再現される。つまり四季折々の花盛りはもちろんのこと、白梅の頃を更に飛び越え、秋も深まって「霜を帯びたる白菊」に
も舞い戯れる蝶となる。        
 時空を超えた舞台空間が能の一大特色である。我々の想像の羽はこのようにして伸びやかに展開する。

◆新古今世界の舞台的表現
 私はすでに能は新古今世界の舞台的表現であると述べておいた。つまり世阿弥の試みは文学史の流れの中に位置するのである。新古今の観念的世界は舞台の歌舞、音楽、謡によってより究極の姿、歌舞の菩薩を現出させる。
花と縁を得た幸せ、花に戯れる胡蝶はやがて             ▲蝶冠
春の明けゆく空に、霞にまぎれて消え去る。 
 シテはまだ若手の新人でこれからの人である。ひとつだけ注文を出しておくなら、その「発声」であろう。蝶の登場からその声は大きすぎた。声量があることは美質だが、詩的世界に合わせた「細さ」がほしい。蝶は軽さも重要な要素なのである。
             (平成元年 3月9日 観世会夜能 観世能楽堂)

掲載日時 2018 年 02 月 08 日 - 午後 04 : 49

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