6 論語成立の一側面 51)『論語』の筆録-2
この王充の記載によって儒教がセクトの時代を脱して遂に最高権力と結びついたこと、それが前漢末、隷書の時代であったことがわかります。筆録の諸条件が整ったまさにその時代だったのです。それは孔子の死(479BC)後、400年ほど経ったあとのことでした。すでに見たように現在知られている最古の『論語』資料(隷書)はこの宣帝による欽定論語の成立に時期が密着しています。河北省や、朝鮮半島の楽浪郡などへと、意外に早く波及したのです。
王充は片田舎(=江南の会稽)の小官僚に過ぎず、うだつが上がらなかったようですが、当時の不条理な社会を批判的に見る目と、広範な学識を備えていました。
『論語』はかくして五経の末尾に置かれる正典としての地位を得ました。国家の定める正典は国子監の門前に石経として刻み込まれるたてまえです。後漢の「熹平石経 きへいせっけい(175~183AD)」には易経、尚書、魯詩、儀礼、周礼、春秋公羊伝の六つに加えて論語が第七番目に刻されたのです。字は霊帝が祭邕(さいよう 後漢の文人、書家)に書かせたもので、隷書完成期の標準的な形で書かれています。唐代まではありましたが、五代になって散逸したといわれていました。ところが1921年、洛陽の太学の遺跡から原石の断片百点余が発見され『論語』もわずかな断片(拓本)が今日に伝わっています。【下図】


熹平石経 論語残塊(175AD)
『武内義雄全集』 第一巻論語篇
(角川)昭和53
掲載日時 2012 年 01 月 13 日 - PM 04 : 47
