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    <title>エッセイ論文</title>
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    <modified>2010-09-03T03:30:00Z</modified>
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[５　筆録の系譜　18）プラトンの講演]]></title>
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 <issued>2010-09-03T12:30:00+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[　プラトンは公的な席で一回だけ講演を行った、といわれます。アリストテレスの弟子アリストクセノスによれば「善について」の講義だったといいます。<br />
<br />
　このときの講義に参列した人は一般人ではなく専門家たちでした。アリストテレスはいうまでもなく、スペウシッポスはプラトンの甥で、アカデメイアの第二代学頭になった人です。クセノクラテスは第三代の学頭、ヘラクレイデスはプラトンの晩年に深いかかわりを持った政治家、などの高等研究員たちでした。プラトン・ゼミのトップクラスの人たちはこの講義をメモし、出版さえもしようとしていたようです。（「プラトンの学園アカデメイア」広川洋一 岩波 ｐｐ.167)<br />
　<br />
　プラトンがソクラテス直系のディアレクティケーを採用していたにもかかわらず、講義形式をたとえ一回だけだったとしても行った、ということ自体、やはり耳の時代から目の時代へと流れは移りつつあった、ということになりましょう。<br />
<br />
　アカデメイアの研究活動はもちろん「耳の伝統」に従っており、講義は「例外的な」形式でした。これが出版されたか、アカデメイアに出版部ができたか、はわかっていません。しかしソクラテスの時代から書物の売買はありました。（ソクラテスの弁明　26DE)　<br />
<br />
　紀元前400年から300年にかけて書物の需要が増大し、ギリシアは書物が重要な輸出品目の一つともなっていました。そうした時代の波は早くもソクラテスの足元を洗っていたのであり、それゆえソクラテスは文字の脅威を察知し、記憶能力の低下に警鐘をならさねばなりませんでした。<br />
]]></content>
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[５　筆録の系譜　17）口誦の伝承]]></title>
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 <modified>2010-09-02T04:13:36Z</modified>
 <issued>2010-09-02T13:13:36+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[　文字が生まれたらただちに「筆録」が行われるようになったと早急に考えるのは、今の人間の思い込みです。筆録には筆録の系譜があり、音に頼る時代から脱却するまでに存外長くかかったと見るべきです。ベルリン・パピュロスの存在は、口誦が９世紀ごろまで続いており、それが案外正確に伝わっていたことを物語っているのではないでしょうか。プラトンの歿後、1260年間も写本が失われていた、というよりはその間、口誦の伝承がプラトン学派を支えていたために、筆録は要らなかったのでしょう。<br />
<br />
　耳の伝承は書物の売買が行われるようになっても、まだ根強く残っていました。人の演説をメモなしで聞き取り、それを憶えて後で別の人に言ってみせる、という人間テープレコーダーのような能力は、紀元１世紀のローマにおいてさえも極く普通のことと考えられていたようです。<br />
<br />
　すでに述べたとおり、人の話を傾聴して頭脳細胞の中に叩き込むという幼い頃からの習慣が、人格の形成に欠かすことのできないものである、という信念がまっとうに機能していた時代でした。そして、それこそが人間の内なる魂を呼び起こす源泉となっていました。同時にそれをかき立てるだけの魅力ある言葉を直接口から発することに、具体的な意味があったのであり、それを強く意識していたのが、ほかならぬソクラテスであったことはいうまでもありません。<br />
<br />
　しかし、それにもかかわらず、三千年来の耳の伝承は徐々に薄らいで行きます。ソクラテスの意味した「真の知」は、文字によって残すことのできる「単なる情報としての知識」ではなかったはずですが、時代は人間の魂の問題よりも「情報」の収集、整理へと向かって行くのです。したがって哲学者たちの関心も次第にそちらへ移って行きました。]]></content>
 <id>http://www.seikeikai.net/essay/:13:728</id>
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[５　筆録の系譜　16）耳から目へ]]></title>
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  <name>okamura</name>
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 <modified>2010-08-25T05:54:22Z</modified>
 <issued>2010-08-25T14:54:22+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[　自分のためのメモである以上、他者にとっての利用価値はありません。抜群の記憶力を持つ人だったとしましょう。当然彼は自分の憶えにくいところを断片的にメモすれば充分です。前後の脈絡はすでに頭の中にあるのです。<br />
<br />
　後世の人がありがたい資料だと思えるほど長々と書き込んでいる備忘があったとすれば、それは初学者のものに決まっています。メモるより先に暗記のトレーニングをしろ、と云われたに違いありません。メモなど見るのはカンニングだと怒られて取り上げられてしまったでしょう。紙だって安くはないのです。<br />
<br />
　このようにイメージすると初期の写本のあり方が資料というよりは別の方向を向いていることがわかります。それを後世の資料と同列に扱うこと自体に無理があり、いわば後世の人間の考え方をあてはめたにすぎません。もしこれがレオナルド・ダ・ヴィンチの筆写本だったらどうでしょう。ダ・ヴィンチなら自分の思考を文字に託した時代の人ですから、その写本は文献資料としての価値があり、写本同士を照合することは方法論として理にかなっています。けれどもプラトン歿後50年ほどのパピュロス本の筆記者がダ・ヴィンチと同じ意識を文字に対して持ってはいなかったのです。<br />
<br />
　さきにプラトン学者の「失望」は耳の時代を考えている私にとって興味深い失望だと述べたのですが、予測できる失望ではありませんか。音の時代、つまり記憶するトレーニングを主体としていた時代の文書は、今日の書物のように「分かち書き」や「句読点」などもありません。声が主役ですから、文字は声を引き出すきっかけとなればよいわけで、読む側が耳で習った記憶によって、区切って読んでいたのです。句読点や分かち書き、カギカッコなどは目で黙読するようになる時代の所産です。耳から目への転換がここにあります。<br />
<br />
　プラトン時代のパピュロス本は「もろくて壊れやすいから、あったけれども失われてしまった」のではなく、もともとないのです。]]></content>
 <id>http://www.seikeikai.net/essay/:13:727</id>
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[５　筆録の系譜　15）ベルリン・パピュロス]]></title>
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  <name>okamura</name>
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 <modified>2010-08-19T04:04:18Z</modified>
 <issued>2010-08-19T13:04:18+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[　もうひとつ同じような発見と失望があります。<br />
　1901年ボルヒャルトがカイロの奥地で入手して、ベルリンへ送った「テアイテトス」の注釈本です。これはベルリン・パピュロスと呼ばれます。紀元２世紀のはじめ頃と推定された古写本です。<br />
<br />
　果たしてその調査結果はどうだったでしょうか。やはりこれも期待外れで、現在ある中世写本と大差のないことがわかったのです。これでは紀元２世紀の古さに意味がなくなります。しかし逆に、９世紀の中世写本の信用性が高まったともいえます。<br />
<br />
　ピートリー・パピュロスと、このベルリン・パピュロスによって得られた結論は、初期の筆写本の資料的価値が低いこと、中世資料がかなり古くまでさかのぼり得ること、という二つです。<br />
　この二つから、まだ「音による伝承」が色濃く残っている時代の写本というものが、いかなるものであったかが浮かび上がってきます。<br />
<br />
　初期の筆記者は文字をせいぜい暗記の補助手段くらいにしか考えておらず、備忘用のメモが残ったと云わねばなりません。<br />
プラトン時代の書物は、<br />
「すでに耳で知っている文章を確認するためのものであることを物語る。いわば備忘用である。」<br />
と田中美知太郎先生の前掲書（pp.201)にある通りです。<br />
]]></content>
 <id>http://www.seikeikai.net/essay/:13:726</id>
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[５　筆録の系譜　14）ピートリー・パピュロス]]></title>
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  <name>okamura</name>
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 <modified>2010-08-05T04:55:58Z</modified>
 <issued>2010-08-05T13:55:58+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[　しかし失われてしまったと云っても、パピュロスに書かれたプラトン写本が発見されていないわけではありません。<br />
<br />
　19世紀にエジプト学者ピートリーは、カイロの南モエリス湖のオアシス付近から「パイドン」と「ラケス」の一部を発見しました。この写本はピートリー・パピュロスとよばれ、書かれたのは前４世紀から３世紀初めごろと推定されました。プラトンの歿後50～80年しか経っていない、圧倒的に古いものでした。<br />
<br />
　待望の新資料です。「得たり」とばかり学者は解読に取り組みました。中世写本を書き改める新しい記載があるのではないか、と期待したのです。ところが、このパピュロス本は案に相違して誤記、脱落が多く、解読のためには９世紀以降の中世写本に頼らざるを得ないことが明らかになったのです。これでは折角の新発見も役に立ちません。<br />
<br />
　何のことはない、「後世の中世写本」のほうが「古くて悪いパピュロス本」よりも資料的価値がある、そう学者は結論しました。<br />
<br />
　このことはプラトン研究者の期待と失望を物語っていますが、このエッセイのテーマにとってはなかなか興味深い失望です。果たして「もっといい写本があったけれど、もろくて失われ、役立たずだけがかろうじて生き残った」のでしょうか。]]></content>
 <id>http://www.seikeikai.net/essay/:13:714</id>
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[５　筆録の系譜　13）筆写本]]></title>
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 <modified>2010-07-29T09:18:57Z</modified>
 <issued>2010-07-29T18:18:57+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[　ここでプラトンの筆写本という少し立ち入った話になります。私は一介の書家ですから、田中美知太郎先生の『プラトン I 生涯と著作』（岩波）の記述を頼りに話を進めたいと思います。<br />
<br />
　プラトンの著作は『プラトン全集』に収録されていますが、活字印刷本となったものは、古くともせいぜい16世紀のヴエネチアのアルド版（1513）がある程度で、それ以前のものは見当たらないようです。<br />
<br />
　それより古い筆写本は、オックスフォードのB写本とよばれるものがあり、そのコロフォン（年記）によれば894年の羊革紙の手書き本です。これはイギリスの旅行家クラークがエーゲ海のパトモス島・聖ヨハネ僧院で発見したもので、今のところ現存写本ではこれが最も古いとされています。<br />
<br />
　つまり９世紀のものです。プラトンの歿（347ｂｃ）後、何と１２００年以上も経っているのです。これ以前のプラトンの著作は「失われてしまった」とされています。なぜこれほどの長期間にわたって残っていないのでしょうか。多くの学者はその理由を当時の書物の「もろさ」にあると考えています。古代の書物はパピュロスでできたものが古く、紀元４世紀以降になると羊の皮を材料とした羊革（皮）紙が使われ始め、中世の写本はこれが主体のようです。<br />
<br />
　パピュロスはエジプトで考案された世界最初の紙で、パピュロス（かやつり草）の茎の皮を剥ぎ、髄を平たく伸ばして作られます。湿気に弱く虫がつきやすく長持ちしません。羊革（皮）紙も同じように湿気と虫には弱いようです。これがプラトンの著作が1240年間も失われていた原因だろう、というわけです。<br />
]]></content>
 <id>http://www.seikeikai.net/essay/:13:707</id>
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[５　筆録の系譜　12）プラトンの弁明]]></title>
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 <modified>2010-07-23T05:19:49Z</modified>
 <issued>2010-07-23T14:19:49+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[　いくら記憶力に自信があったとしても、師への背信行為にも等しい「筆録」には、プラトンもいささかの「後ろめたさ」があったのでしょう。彼の『第七書簡』にはこう書かれています。<br />
　「（書物を著す）これらの人は、少なくとも私の判断では、肝心の事柄を少しも理解している人ではありえない、と。」（341ｃ）<br />
また、<br />
　「何であれ、それら（書物）はその人にとって、もしその人自身が真面目な人であるなら、真面目な意味をもつものではなかったのだと知らねばならない。むしろそういう真面目な意味をもつものは、どこかその人の持っている最上のところ（心の奥）に置かれているのだ。」（344ｃｄ）<br />
　この部分を田中美知太郎氏は「書かれたもの一般が真面目な意味をもつものではないとして否定されているのである。」と簡潔にまとめています。<br />
<br />
　プラトンはソクラテスの文字否定の精神をやはり受け継いでいるわけで、『第二書簡』では<br />
　「これらについてわたしは未だかつて何も書いたことはない。プラトンの書いた書物はいまも何ひとつないし、これからもないだろう。現在プラトンの著と称されているものは、美化され若がえらされたソクラテスのものなのです。」（314ｃ）<br />
と、白ばっくれるよりありませんでした。<br />
<br />
　『プラトンの学園アカデメイア』の中で著者広川洋一氏は、<br />
　「なにゆえ、かく述べたプラトンが少なからぬ対話篇を書き著わしたか。この点については少なくとも私たちのこれまでの考察からは真面目な解答はほとんど与えられていない。それはやはり一つの謎としなければならないだろう。」（同書ｐｐ.186）<br />
と述べています。相手は確信犯なのですから「真面目な」人にとっては一筋縄では行かないのでしょう。<br />
]]></content>
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[５　筆録の系譜　11）覚悟の筆録]]></title>
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  <name>okamura</name>
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 <modified>2010-07-17T05:21:15Z</modified>
 <issued>2010-07-17T14:21:15+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[　今私たちがソクラテスの考えを知ることができるのは、弟子のプラトン（前427～347）が「書き残して」くれたおかげです。プラトンはパイドロスとソクラテスの会話には参加していませんから、パイドロスから聞いた話を書き留めたのです。この中にはさきに記したような「文字否定」の言葉があり、それをプラトンは「文字」で記（しる）したことになります。<br />
<br />
　師のソクラテスなら「止めとけ」とでも言ったであろうことは百も承知で書いたのです。これは師への反逆でもありますから、恐らく人知れず、ひそかに書いて秘匿していたのではないでしょうか。まあ、師の死後には公表するつもりでは居たかもしれません。その動機は師の言葉を後世に残したいという、止むに止まれぬ覚悟の筆録だったはずです。<br />
<br />
　パイドロスの長々とした話をよくもまあ克明に甦らせたことよ、と感心してしまいますが、私はそうは思いません。<br />
<br />
　プラトンはアカデメイアの秀才で、第一の後継者です。抜群の記憶力があったと考えて不思議はありません。そうでなくとも「耳の時代」なのです。人の話に耳を傾ける基礎訓練が不可欠の時代のエリートです。若い頃には政治家になろうと考え、演説のためにソフィストの手管をも学ぼうとしたほどの弁舌の人でもありました。演説はメモなど見ずになされたに相違ありません。<br />
<br />
　また彼は詩の素養もありました。当時の詩人は自分の詩集をめくりながら朗読するといったようなことはありません。ある程度は即興で、ホメロスの一節や古謡などを巧みに取り入れて詩を吟ずるのです。若きプラトンもそんなことは「お茶の子さいさい屁の河童、か河童の屁」であったと思います。パイドロスの話など、その日のうちに一言一句違うことなく思い起こす能力は充分すぎるほどあった、と私は信じています。]]></content>
 <id>http://www.seikeikai.net/essay/:13:697</id>
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[５　筆録の系譜　10）書くことさえ]]></title>
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 <modified>2010-07-08T09:42:58Z</modified>
 <issued>2010-07-08T18:42:58+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[　私は今「文字」の根底にゆさぶりをかけています。<br />
　文字を使うおかげで「傾聴する」ことが希薄になっている、と前項でのべましたが、「みじろぎもせず」「かたずをのんで」「全身を耳にして」などという言葉が死語にひとしい時代になり、傾聴することを必要としない時代になっている、と言うべきなのかもしれません。<br />
<br />
　授業をサボり、ひとのノートを（書き写すこともなく）コピーして試験に臨むことが、大学生ですら可能な社会になったのです。何と便利な世の中でしょう。書くことを手に入れた人間は聞くことをおろそかにするようになっただけでなく、今、親指でメールを打ち、キーボードでローマ字打ちをして「書く」ことさえしなくなっています。「鬱という字が書けなくて鬱になり」と「読売時事川柳」にありましたが、打って表示はできても、いざ書く段になると書けないのです。<br />
<br />
　聞くことも、書くこともしないで済む便利な時代に私たちは急速に突入しています。書くことによって伝わってきた文字の根底までもが、確実にゆらいでいるのです。<br />
<br />
　この便利さと引きかえに何を失っているのか、少しずつ見えてきました。そして今文字を書いている私自身にとって、まだ文字がなく、耳と音に頼っていた時代に対するイメージを、もっと具体的に知ることが大切ではないか、と思うのです。なぜなら、そもそもこのソクラテスの文字否定の考えを、私たちは何と「書かれた文字」によって知り得ているのですから。]]></content>
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[５　筆録の系譜　9）音の時代へのイメージ]]></title>
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  <name>okamura</name>
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 <modified>2010-07-02T04:51:02Z</modified>
 <issued>2010-07-02T13:51:02+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[　マニフェストに書いて公表したものを、いともあっさりと反古にするのは「書きっぱなし」の最たるものです。「最少でも県外」と言うのも「言いっぱなし」でした。まだ文字のなかった時代には、いったん口に出したことはそれなりに真価を持っていたはずです。<br />
<br />
　「綸言汗の如し」という言葉があります。言葉による伝達の時代だから、天子の言葉は引っ込みがつかないこと、それ故に言葉の重さを庶民も充分に感じていたことを物語っています。<br />
<br />
　今、私が「音による言葉の時代」を考える上で、かつてのこうした世界をイメージしておくことは多くの手がかりを与えてくれます。<br />
　たとえば、お母さんが子供に買い物を頼んだとします。「大根と人参と、牛蒡と、椎茸とそれぞれいくつずつ」というように。言われた子供はそれをまるごと憶えて行くわけです。（メモのない時代です。）もしも途中で数を忘れたら引き返さねばなりません。八百屋では必死になって記憶を呼び戻すでしょう。<br />
<br />
　このようにして育った子供は、ひとの言うことにしっかりと耳を傾ける習慣が身につくはずです。しっかりと聴くことが責任を全うすることに直結するからです。メモを渡されて買い物に行く今の子供は、その訓練がなされずに育ちます。教室で先生の目をみつめ、「かたずをのんで」傾聴する態度は希薄です。教えられたことを瞬時に記憶の細胞に叩き込む自己トレーニングが、文字社会の中で日常的に不足しているのです。<br />
<br />
　文字によって「記憶を呼び起こす作業をしなくなる」とソクラテスの言ったことは見事に当たっています。]]></content>
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