52 真似るといういとなみ
書道においては「真似る」といういとなみは特別な意味を持っています。前にのべたように、文字は書法、つまり法則でもありますから、まずは正しい字形を真似なければ始まりません。勝手な字形を独自に書いても他人が読めなくては文字ではないのです。それは当然のことですが、そのほかに「臨書」という書だけが持つ不思議なジャンルがあります。
ある人が私に怪訝な顔で尋ねたことがあります。「ある書家の個展に行ったら臨書が展示されていた。あれは自分の作品として発表すべきものであるのか? 個展というにふさわしいものだと思っているのだろうか?」と。
なるほど仰せの通りです。絵には「模写」というジャンルがあり、古典の研究のために、例えば前田青邨などは顧愷之の「女子箴図」を克明に模写しています。しかしそれはあくまでも「模写」であって青邨の作品とはみなされません。絵は書と違って万人共通のルールというものはありませんから、独自性を第一に考えます。真似るなどもってのほかです。それは自らの研究のための手段なのです。
臨書も本来的には研究の手段であって、自分の書斎で独自に行うものでありましょう。個展で発表する作品の陰の作業なのです。しかし「真似る」ことがスタートラインにある書の分野では、生涯「臨書」を措いてほかに無し、ということも真理です。中林梧竹(1827~1913)は王羲之の臨書に生涯をかけて打ち込みました。独自性というちっぽけなものに捉われなかった気骨がその書の気韻に表出されています。これを見ると「臨書」のスゴサが脈うって伝わってきます。本気で王羲之に取り組むということは決して「模写」ではないのです。
このような書道家は少なくありません。呉昌碩と「石鼓文」、赤羽雲庭と「王羲之」、日下部鳴鶴と「鄭道昭」などなど。真似るといういとなみをおろそかにしてはなりません。
掲載日時 2009 年 12 月 11 日 - PM 09 : 17
