427 文字 ⑲向き合う「人」
人が向き合っている字はいくつかあります。
「郷キョウ」と「卿ケイ」は篆書では同形です。(右図)
盛食の器である「皀キ」を中心に人があい向かうさま。「饗する」意味と「それに与る人の地位」の意味「卿ケイ」となり、人は坐った形です。
孔子の春秋時代には「郷党」という飲食会があちこちで行われていました。村の長老を招いて饗応し、村の歴史、しきたり、言い伝えを語ってもらうためです。時には隣り村の長老を招くこともありました。『論語』の「郷党篇」にその饗応法がこと細かく記述されています。「郷、卿」の字は「郷党」の風習を思わせます。郷党に参加できる一般人であれば、この字はほほえましい光景です。
しかし食器を前に人が向き合うことは本来的には別の意味があったことを私は思い起します。古来「食事を共にする」ことは「仲間」であることの象徴です。インド風に言えば異なるカーストの人間と食事を共にすることはタブーでした。
低階層に属していた聾者集団には、一般人との会食はほとんどなかったでしょう。もちろん身内同士なら一緒に食事をとることは当たり前ですから敢えて文字にすることはありません。つまりこの字は「人と人とが対等に食卓につく」という彼らの「反社会的抵抗」がうかがわれます。文字の使命は現状を写真のように切り取るだけではなく、創造者たちの意志の表明であり、主張でもあるという側面を見逃しては、本来の漢字の面白い動機が見えません。
漢字の発明は彼らの言語の獲得であり、人間性のあかしです。彼らは漢字を通じてそれを高らかに宣言しようとしたに違いありません。我々の存在を対等に認めよ、という主張があるから文字作成活動にも拍車がかかります。
すでに私は聾者の「聾」という字形に、その意気込みのあることをエッセイで指摘しておきました。繰り返しになりますが「聾」という字は耳に「龍」です。これに対して盲者の「盲」は「目を亡(うしな)う」と書きます。これに倣うなら「耳を亡う」と書いてもおかしくありません。ところが耳に「龍」なのです。彼らは雌伏していた龍が深淵から飛び上がって天翔けるさまを、漢字という道具を手にした自らになぞらえたのでしょう。
掲載日時 2018 年 04 月 13 日 - 午後 05 : 36
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