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    <title>書道コラム</title>
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[59　アベコベ]]></title>
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  <name>okamura</name>
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 <issued>2010-03-08T15:21:22+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[　「我は海の子白波の」という歌（文部省唱歌）があります。私の妹は幼い頃「煙たなびく<b>とやま</b>こそ」と歌っていました。たしかに「苫屋（とまや）」は子供にとって難解な単語なので、なじみのある身近かな言葉におきかえたのです。<br />
<br />
　かの向田邦子さんですら、画家モ<b>ヂリ</b>アニをモ<b>リヂ</b>アニだと思っていたと随筆にありますから、誰もがこうした幼児体験に心あたりがあることでしょう。大人になってアベコベだった、と知ったときの感動を味わうためにも、ほほえましい覚え違いはかえって人生を楽しくします。<br />
<br />
　書家が字をアベコベにしたら、ほほえましいでは済みません。いつの間にか上下の漢字を逆に書いて気付かないことがよくあります。「今人自ずから来往す（裴廸（はいてき）の詩）」の「来往」を「往来」と書くようなたぐいです。半紙にたくさん稽古した時には、最終的に原詩とつき合わせて確かめる用意をしなければ表装には出せません。点画に気をとられているうちに、気になっている字を先に書いてしまったりするものです。また、なじみのない「来往」を、なじみのある「往来」におきかえてしまうこともありましょう。このような時には、漢詩は外国語なのだ、とつくづく思います。<br />
<br />
　テレビを見ていたら「お手々のシワとシワを合わせて幸せ」と、女の子に言わせている仏壇のコマーシャルがありました。（全国ネットなのか、東京だけなのかわかりませんが）。この台本を書いた広告会社の人は「し<b>あわ</b>せ」を「し<b>わあ</b>せ」と思い込んでいるようです。シワとシワを合わせても、残念ながら「しあわせ」にはなるまい、と思わず減らず口をたたいてしまいそうな珍作です。]]></content>
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[58　筆の腰]]></title>
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  <name>okamura</name>
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 <modified>2010-02-25T08:55:28Z</modified>
 <issued>2010-02-25T17:55:28+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[　前回、「起筆に腰を入れる」と言いましたが、筆を持ったことのない人にはわかりにくい表現なので、いわゆる市販の教本に出ている図を示しておくことにします。<br />
<a href="http://www.seikeikai.net/media/2/20100225-p 003.jpg">null</a><a href="http://www.seikeikai.net/media/2/20100225-p 004.jpg">null</a><br />
　これは小野鵞堂先生の「三体千字文」（秀峰社）に出ている解説です。図のように筆の穂をＳ字にするのがミソです。こうすればＳ字の下の彎曲部がショックアブソーバーとなって、安定した線が引けるというわけです。ただ単に筆を「紙に押し付ける」のだと早合点しないように。<br />
<br />
　この他にも図示している本がありますから、これ以上の説明は不要ですが、このＳ字カーブをつくるには、まず（2）図のように筆を下ろして、次に筆管（軸）を垂直に立てたまま、グイと穂先の方へずらせるのです。これを私は「腰を入れる」と言っています。<br />
　]]></content>
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[57　立ち合い]]></title>
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  <name>okamura</name>
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 <modified>2010-02-06T05:28:37Z</modified>
 <issued>2010-02-06T14:28:37+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[　貴乃花新理事と朝青龍引退が重なって相撲の話題でもちきりです。私も相撲が好きです。私が初めて見に行った時の横綱は照国万蔵でした。（年がわかりますね）。この前国技館に行ったのは、貴乃花が引退する前の場所でしたから、大したファンではありません。ですから、今取りざたされているテーマについてとやかく言う資格はありません。<br />
<br />
　私が相撲をテレビでよく見るのは、書道と似ているところがあるからです。え、どうして？　と思ってくださればこのコラムは半ば成功です。コラムの面白さは意外性にあるからです。<br />
<br />
　相撲は立ち合いを大切にします。立ち合いがすべて、という人もあります。この一瞬で勝負が決まる、といわれています。そのために行司は軍配を反して、その「瞬間」を力士の呼吸に任せます。「ヨーイ　ドン」ではないのです。立会いの瞬発力を最大限に引き出すにはしっかりと「仕切って」立たねばなりません。仕切りが不充分では腰が高くなって、相手の低い重心に当たられたらひとたまりもありません。<br />
<br />
　これはお習字の「起筆」にも言えることです。起筆というのは紙に筆を下ろす最初の動作で、始筆とも言いますが、八画の字には八回の起筆を伴うわけで、「始筆、終筆」とは区別して「起筆、止筆」と言っておきましょう。おもむろに筆を下ろして、まず点を打ちます。そのときしっかりと腰を入れます。筆の重心を点の中央に移動させるのです。打ったばかりの点は重心が筆管の真下、点の下方にあります。このまま（腰を入れずに）線を引くと線の下辺に力が片寄り上辺が浮いてしまって、まともな線にはなりません。そこで、重心をちょっと上にずらせて穂先が浮くのを防ぐわけです。どうですか。筆を動かす前にしっかりと「仕切って」いないと線に負けるのです。昔の教本には筆の腰の入れ方を図解していましたが、このごろはこれを知らない人も多くなりました。<br />
<br />
　立つ前に充分に腰を入れて仕切る。これは運筆の前にしっかりと腰を入れる「起筆」と同じです。]]></content>
 <id>http://www.seikeikai.net/column/:6:569</id>
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[56　光化門]]></title>
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  <name>okamura</name>
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 <modified>2010-01-30T07:25:53Z</modified>
 <issued>2010-01-30T16:25:53+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[　愚か者の放火によって韓国ソウルの南大門が焼け落ちたことは多くの人にショックを与えました。一方景福宮の光化門（クァンファムン）は最近その復元工事が始まっていると新聞にありました。光化門は何度も火災にあっていて、そのつど復興されてきたようですが、今回は「木造」による全面的な復元であるらしく、その図面は日本に残る記録にもとづくもののようです。<br />
<br />
　韓国にとってこの門は植民地時代を生き延びた建造物で、民族独立の象徴ともいえるものです。国を挙げて復元する思いには「朝鮮総督府」のいまわしい記憶と結びつかないではいられません。王宮のほとんどが破壊され、総督府の正面はけしからんと、無理やり位置を変えさせられた怨みがあります。（日本統治時代に作られた図面が役に立つというのは皮肉ではありますが）。<br />
<br />
　オール木造を計画すると、かつての門額（木額）をも復活させねばなりません。その門額は英祖王の筆跡で漢字で「光化門」とあり、コンクリートで再建された門のハングル（朴正熙大統領の書）ではないのです。ハングルも民族独立の証しのようなものですから、漢字にするな、いや朴大統領の字はふさわしくない、などと論争になっていると書かれていました。<br />
<br />
　韓国は日本より古い漢字文化国で、漢字の流入は日本の奈良時代よりはるかに早いでしょう。ハングルが民族独立と強く結びついているために「漢字」まで日本の植民地政策の遺物のひとつに思うのはお門違いというものです。韓国の書文化はハングルの普及のために日陰者になっているのではないでしょうか。私は日本以上にすぐれた韓国書家があっただろうと思います。ただ余り紹介されていないので、寡聞にしてよく存知ません。<br />
<br />
　漢字文化を持ったことに私は誇りを持っていますが、韓国書人も同じ思いがあるのではないでしょうか。漢字もとんだトバッチリを受けたものです。]]></content>
 <id>http://www.seikeikai.net/column/:6:565</id>
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[55　大道芸]]></title>
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  <name>okamura</name>
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 <modified>2010-01-08T13:02:24Z</modified>
 <issued>2010-01-08T22:02:24+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[　新年おめでとうございます。年があらたまったところで話題を変え、今年は時々の話題でコラムを綴ることにしましょう。<br />
<br />
　年末に恒例の「流行語」のお披露目がありました。悪名高い「漢字検定」の行事である清水寺管主による「新」の大字揮毫をテレビで見た方も多いでしょう。毎年不思議に思って見ているのですが、今年も紙をキャンバスのように立てて書いていました。腕を伸ばして、上のほうから書いていけば、当然紙に吸収しきれない墨は下に垂れます。書き終わると下辺は墨がダラダラと垂れ下がって紙面を汚しています。<br />
<br />
　書は墨水を扱うものですから、紙を平らに置かねば書けません。筆を真横に構えてしまっては、側筆（そくひつ）の下部（筆の下腹）に墨がたまってマトモな字は書けません。紙は水平、筆は垂直が原則です。書道全集の古今の名筆を見て下さい。ダラダラ墨の垂れた作品は皆無です。あれは字ではなくヨゴレだからです。よごして平気な人の作品を誰が飾って床の間にかけるでしょうか。<br />
<br />
　恐らく背景となる清水の舞台を同時に画面に納めたいカメラマンかディレクターかの要望でしょう。だったら、足場を組むなり、クレーンでカメラを吊るすなりして、そっちで工夫しろ、と断固拒否すべきです。見場を優先してカメラマンのいいなりになるのは大道芸のすることで、書に向かう人の姿勢ではありません。<br />
<br />
　大道芸としてのパフォーマンスは見ていて面白いことも事実です。箒のような大筆を振り回して、足跡のつかないように走り回るのも容易ではないでしょう。ただし、清水寺の揮毫も含めて、書くことを見世物にする芸当に「書」はありません。そこを踏まえてよく見物しましょう。滑稽で、投げ銭を与えたくなります。]]></content>
 <id>http://www.seikeikai.net/column/:6:544</id>
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[54　変化を楽しむ]]></title>
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  <name>okamura</name>
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 <modified>2009-12-28T06:19:25Z</modified>
 <issued>2009-12-28T15:19:25+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[<a href="http://www.seikeikai.net/media/2/20091228-mu.jpg">null</a>　右は天溪の「無」の楷書バリエーションです。たった一字だけでもこのくらいの変化があります。字形は同じでも筆法を変え、あるいは線の付けかたを変えるなど、伝統書の用例を拾い上げてさまざまに書いているのです。<br />
<br />
　これが「無心」と二字になると、次の字とのつながりはどうか、並んだ構成はどうか、などの要素が加わり複雑になります。「虚無」と書くなら、今度は上の字形との調和を考えねばなりません。奥は深まるばかりで飽きている暇はありません。下の四つの点だって同じではなく、それぞれに表情があります。<br />
<br />
　変化を楽しむというのはこういうことです。傍目では筆で同じことをやっているように見えます。しかし書いている本人はああでもない、こうでもない、このほうが面白い、このほうがカッコいい、と悪戦苦闘し、そのつど喜んだり、ガッカリしたり喜怒哀楽の時間を過ごします。一日かけて一字に取り組むということもあるわけです。<br />
<br />
　どうですか。面白そうでしょう。そう思う人はお習字に向いています。試みにこの無の字をお書きになってください。点の向きだけでなくタテ棒の長さや上下の接点も違いますよ。<br />
<br />
　これは『岡村天溪　楷書の世界』（2007年刊、檜書店）に掲載しています。<a href="http://www.seikeikai.net/school/book.html">詳細はこちら。</a><br />
<br />
　12月のこのコラムはここまで。では皆様よいお年を。]]></content>
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[53　あきっぽい]]></title>
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  <name>okamura</name>
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 <modified>2009-12-20T06:34:24Z</modified>
 <issued>2009-12-20T15:34:24+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[　誰でも同じことを繰り返していると飽きてしまいます。お習字は紙の上で筆を動かすという、いわば同じことの繰り返しですから、自分はあきっぽいので、書道には不向きだ、とアタマから決めてかかっている人もあります。<br />
<br />
　同じことに飽きるのは変化が見えないからです。一日中、ドラ焼きをひっくり返しているとしましょう。下手なうちはまだ変化があります。ひっくり返しそこねるので同じにならないからです。しかし慣れてくると同じように手が動くようになります。店先で実演販売している人の手つきは流れるようで見事です。しかしそれは私のような素人が見るからで、そこにも微細な変化があるのです。職人はその微細な手加減を始終微調整しているので、同じではないのです。<br />
<br />
　レベルが高くなれば微調整の度合いもケタ外れに高まります。その日の気温によっても変わる、というのは恐らく本当でしょう。自分の体調も、外部の風も変化のかたまりです。飽きている暇などありません。調整せねばならないことは無限に襲ってくるはずです。<br />
<br />
　同じことを繰り返していると飽きますが、「同じこと」でなければよいのです。あきっぽい人は変化が見えない人なので、注意深く違いを発見できれば飽きないですみます。ヨコ棒一本の違いを先生は教える必要があります。早く違いのわかる人にしてあげなければなりません。<br />
<br />
　そう言えば「違いのわかる」というコマーシャルが昔ありましたね。インスタントコーヒーの違いなどわからなくても恥ではないし、ひとの作ったものの違いより自分の作るものの違いがわからなければ、面白くもありません。同じ自分が書いたのに、違って、違って、なかなか同じにならない、というものこそ飽きないコツです。お習字はその最たるものです。]]></content>
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[52　真似るといういとなみ]]></title>
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  <name>okamura</name>
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 <modified>2009-12-11T12:17:24Z</modified>
 <issued>2009-12-11T21:17:24+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[　書道においては「真似る」といういとなみは特別な意味を持っています。前にのべたように、文字は書法、つまり法則でもありますから、まずは正しい字形を真似なければ始まりません。勝手な字形を独自に書いても他人が読めなくては文字ではないのです。それは当然のことですが、そのほかに「臨書」という書だけが持つ不思議なジャンルがあります。<br />
<br />
　ある人が私に怪訝な顔で尋ねたことがあります。「ある書家の個展に行ったら臨書が展示されていた。あれは自分の作品として発表すべきものであるのか？　個展というにふさわしいものだと思っているのだろうか？」と。<br />
<br />
　なるほど仰せの通りです。絵には「模写」というジャンルがあり、古典の研究のために、例えば前田青邨などは顧愷之の「女子箴図」を克明に模写しています。しかしそれはあくまでも「模写」であって青邨の作品とはみなされません。絵は書と違って万人共通のルールというものはありませんから、独自性を第一に考えます。真似るなどもってのほかです。それは自らの研究のための手段なのです。<br />
<br />
　臨書も本来的には研究の手段であって、自分の書斎で独自に行うものでありましょう。個展で発表する作品の陰の作業なのです。しかし「真似る」ことがスタートラインにある書の分野では、生涯「臨書」を措いてほかに無し、ということも真理です。中林梧竹（1827～1913）は王羲之の臨書に生涯をかけて打ち込みました。独自性というちっぽけなものに捉われなかった気骨がその書の気韻に表出されています。これを見ると「臨書」のスゴサが脈うって伝わってきます。本気で王羲之に取り組むということは決して「模写」ではないのです。<br />
<br />
　このような書道家は少なくありません。呉昌碩と「石鼓文」、赤羽雲庭と「王羲之」、日下部鳴鶴と「鄭道昭」などなど。真似るといういとなみをおろそかにしてはなりません。]]></content>
 <id>http://www.seikeikai.net/column/:6:529</id>
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[51　ものまね]]></title>
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  <name>okamura</name>
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 <modified>2009-12-02T12:59:41Z</modified>
 <issued>2009-12-02T21:59:41+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[　テレビを見ているとものまね芸人が活躍しています。有名人なら誰でも彼らのかっこうのネタにされてしまいます。政治家、歌手、アスリート、何でもござれです。あまりに似ていて笑うことを忘れるほどの人もいます。<br />
<br />
　真似られるのは主に「声色」と「しぐさ」でしょう。これは視聴覚時代を物語っているのでしょう。たとえば「筆跡を真似る芸人」というジャンルはありません。<br />
<br />
　しかし昔は「筆跡を真似てみせる」という隠し芸がありました。私の叔父は若くしてなくなったのですが、字のうまい人で、誰それの字を即座に書いてみせるという特技がありました。あるとき、有名な政治家に面会したいのだが、コネがなくて、という人がいて、叔父は即座に「○○君を御引見被下度候　西園寺公望」と奉書に太々と書いて渡したところ、いとも簡単に面会できたそうです。そんな逸話（文書偽造ですね）を聞いて育った私ですが、これは「西園寺公望」や「板垣退助」の字などが巷間に出回っていた時代でなければなりません。昔の偉い人はよく人に乞われて筆をとったし、庶民も著名人の書き癖を知っていたのです。<br />
<br />
　今は人の筆跡を真似る面白さを芸にする人はありませんが、例えば「大江健三郎」の原稿用紙の字を真似ろといわれれば、私なら即座に鉛筆をとります。でも、きっとウケないでしょう。<br />
<br />
　書の基本は「ものまね」にあります。「学ぶ」は「<b>まねぶ</b>」だと言う人もあります。これは字が「書法」つまり法則にもとづいて成立しているからです。「俺はサンズイを五つにする」と言ってもダメです。ワカンムリに点を勝手につけてはなりません。大、犬、太と点の位置にも決まりがあります。そのために正しい書を「まねる」のです。ただしどうせ真似るなら正しく、美しい、上質なもの（古典）を範としましょう。それが「臨書」です。<br />
<br />
　]]></content>
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[50　せっかち]]></title>
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  <name>okamura</name>
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 <modified>2009-11-01T10:04:00Z</modified>
 <issued>2009-11-01T19:04:00+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[　（９月、10月と展覧会が続いたので、ブログをフリーズさせていました。再開です。）<br />
<br />
　ノロマのあとはせっかちということになりましょう。かくいう私も江戸っ子のせっかちで、レストランでメニューを見たとたんに即断即決しないと気色が悪い、という欠点を有しております。もちろん早トチリは日常茶飯事で、早トチってドジを踏む人に対しては極めて寛大な心を持っております。はい。<br />
<br />
　せっかちが筆をゆっくり運ぶには、どうすればよいでしょうか。筆を軽く持つことをお勧めします。指の先で軽く持ち、急ぐと紙に足を取られて筆がひっくり返ってしまうくらいがよろしい。また、筆画のおわりに筆を持ち上げた瞬間、次の線に心が向かってしまうので手本を見ないクセがつきます。ですから収筆を高く上げ、眼をすばやく手本に、自分の書いた線に、と往復させ（これは得意わざでしょう）、おもむろに次の画に移る、という稽古をくりかえします。<br />
<br />
　せっかちにも長所があります。決断が早いということは、自分の書いた線にあまりこだわらないということです。従って反省も早く、書き直すことに躊躇はありません。これはなかなか得がたい資質です。人の倍書き直せばさすがにうまくなります。<br />
<br />
　せっかちの人は字形への直感がすばやく働きますから、目習いをたっぷりなさってください。目習い七、に手習い三、くらいでよいでしょう。せっかくせっかちに生まれついたのですから、これを逆手にとるべきです。私は根はせっかちですが、今はじれったくなるほどゆっくり書いています。]]></content>
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